思記

よしなしごとをそこはかとなく

「虚構」と「虚構」の間で ~改めてG1カレッジ論争を振り返る~

再開にあたって

少しだけ執筆から離れるつもりが、思いがけず長い休みとなってしまった。僕の文章を期待してくれている人はそうたくさんいないだろうとはいえ、仮にも「日記」と題するものを二ヶ月以上も放置していたのはいただけない。この期間中、書きたいことはいくつもあったのだが、どうもブログに気持ちが向かない自分がいた。その原因はやはり、G1関連の記事に伴う諸々のやりとりにある。再開にあたって、改めてあの一件を振り返ってみようと思う。わざわざ蒸し返さずとも、という声もあるだろうが、この作業は僕にとって避けては通れない気がするのだ。

改めてG1カレッジ論争を振り返る

まず、何があったのかを端的にまとめる。僕が本ブログにおいて、G1カレッジが過剰に「提案主義」的であることを指摘し、「批判主義」的視座を持つことの重要性を説いた。それに対して様々な応答があったが、それらの大半は反論というよりも防衛反応に近しいものであった。

では、彼らは何を防衛しようとしたのだろうか。この問いの回答は一見「G1カレッジ」であるように見えるが、僕はそうは考えない。僕の記事で展開されていたのはあくまでより良いG1カレッジのための建設的批判であり、土台となるG1カレッジそれ自体の価値を否定していた訳ではない。より厳密に言えば、「G1カレッジ」という回答は大きすぎる。彼らはG1カレッジにおける何を防衛しようとしたのか。僕はそれは「提案主義」であると考えている。

提案主義とは僕が以前の記事で用いた用語であり、以下のように定義している。

社会には問題があり、それらは変革によって解決されなければならない。社会の問題は喫緊に解決すべきなので、提案を重ねて変革を進めていかなければならない。変革のために、我々はまず具体的な行動を起こさねばならない。これがG1が共通認識として持っている価値観である。以下、G1のこの価値観を、「提案主義」と呼ぶ。

この提案主義は、G1カレッジというイベントの根幹をなすアイデアである。G1カレッジでは様々なジャンルの議論が展開されるが、この根本的な価値についての議論は行われない。社会変革のための具体的な行動を尊ぶ価値観は、所与のものとして参加者に共有されている。

ではなぜG1カレッジにおいて提案主義が重要なのか。一つにはこれを主催する団体の価値観の存在があるだろう。加えて、参加する層の学生が、多かれ少なかれ提案主義的パラダイムの中で結果を出してきた存在であることも忘れてはならない。何かを提案し、社会にインパクトを与えることによる成功体験が、彼らの自信やアイデンティティの根源となっている。それゆえに、自らに親和的な価値観によって形成された集団に対する彼らの愛着は強い。

そしてその愛着は、その価値観への挑戦者に対する攻撃性に容易に転化する。なぜなら提案主義への批判はG1カレッジ批判にとどまらず、自分自身のアイデンティティを揺るがしかねない問いに繋がるからである。何かを企画し、形にし、評価されるというサイクルによって自信を深めてきた人々にとって、何かを提案することで評価されるという考え方自体に対する批判は、自らの存在理由を揺るがしかねない。この自己破壊の危機に陥った時、人はとっさにその批判を排除して自己を救済しようとする。G1カレッジ批判に対する応答は、この構造で捉えることができるのではないだろうか。

虚構なき世界に人は生きられない

前章でG1カレッジ批判に対する防衛反応を示した人々の内面を考えた。簡単にまとめて言えば、彼らは「提案主義」という価値観を強固に内面化しているため、提案主義自体が正しいかどうかの問い直しを試みた記事を自己アイデンティティの危機と捉えて防衛反応を示した、という内容であった。

上記の議論を読んで、彼らを「批判に対してオープンでない偏狭な人間」と解釈する人もいるかもしれない。はっきりと言っておくが、それは誤解である。僕は彼らの特定の能力が劣っているとか、心が狭いとか、そのような観点で今回の一件を回収したくない。このような防衛反応を示してしまう心理は、僕も含めて誰もに存在するものだと僕は考えている。 

議論の補助線として、小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会,2008年)を参照しよう。小坂井は本書において「責任と呼ばれる社会現象は何を意味するのか」について思考する。詳細は本書を読んでいただくとして、小坂井は「責任は社会的に生み出される虚構だ」という結論に至る。

道徳や真理に根拠はない、しかしそれにもかかわらず、揺るぎない根拠が存在するように感知されなければ人間生活は営めない、虚構として根拠が成立すると同時に、その恣意性・虚構性が隠蔽される必要がある。(p.iv)

妊娠中絶・脳死・臓器移植・クローン・安楽死・死刑制度など、どれをとっても合理的根拠など存在しない。無論議論は尽くされねばならない。そして何らかのコンセンサスに至るだろう。しかしどんな正当化をしようと究極的には恣意性を免れない。この答えが最も正しいと今ここに生きる我々の眼に映るという以上の確実性は人間には与えられていない。判断基準は否応無しに歴史・社会条件に拘束される。正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。その背景には論理以前の世界観が横たわっている。(pp.165-166)

社会秩序に根拠はないが、社会秩序がなければ社会は成立しない。このジレンマに対して、前近代の伝統社会に生きる人々が発明したのが<外部>としての神である。共同体の内部からは根拠づけられないルールを超越的存在である神によって基礎付けることで、伝統社会は社会秩序の恣意性・虚構性の隠蔽に成功した。

しかし神が死んだ近代において、この問題は再燃する。伝統社会において神が引き受けていた<外部>を近代社会においていかに位置付けるか。神が死んだ以上、近代社会における<外部>は、市場や法体系と同様に人間社会内部の制度として定位する他ない。<外部>の基礎づけとして近代には「責任」概念が存在するが、この概念が人工的に構築された社会契約である以上、「責任」は必ず内部に矛盾を孕む「虚構」である。近代社会はこの虚構の上に成り立っていることを小坂井は指摘し、以下のように結論づける。

神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける<外部>は生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。(p.247)

越境という倫理的プロジェクト

「あらゆる共同体において、その秩序を根拠づけているのは虚構。」これが小坂井の主張の骨子である。G1カレッジの例に戻って考えると、G1カレッジにとっての「虚構」は「提案主義」である。「提案主義」という虚構のない世界には彼らは生きられない。ゆえに、その虚構性を暴こうとした僕の存在は、共同体にとって排除の対象となる。

これは彼らに限った話ではなく、誰もに当てはまる。誰もが何かしらの虚構を基礎に、世界や自己を根拠づけている。僕の依拠する「批判主義」も例外ではない。僕は批判的に思考することで物事を正しく捉えることに価値を見出しており、それ自体の根拠づけも提案主義のそれと同じくらい経験的なものである。僕も人間である以上、虚構無くしては生きられない。

ゆえに、異なる虚構に依拠して生きる他者と向き合う時、我々は慎重でなくてはならない。たとえ他者の価値観が自分にとっては偏狭なそれであっても、それについて言及すると(たとえ否定ではなかったとしても)過剰な攻撃性を伴う応答を引き起こしかねない。相手の価値観を適切に見極める作業はゴールではなくスタートである。そこからいかに両者を越境する倫理的な翻訳可能性を見いだすことができるか。これは分断が進む現代社会において極めて重要なプロジェクトである。

乱暴な比喩で言えば、今回の一件は熱心なクリスチャンに対し無遠慮な無神論を展開したようなものなのではないだろうか。確かに世俗主義者の僕にとって、クリスチャンの彼らの信仰は受け入れがたい部分もある。しかし信仰によってアイデンティティを形成する彼らにとって、キリスト教の否定はそれだけに止まるものではない。そのことを考慮していたならば、より誠実な対話の手段を選択できたのではないか。これが今回の一件における僕の反省点である。

 

 

「提案主義」と「批判主義」

はじめに

前回の記事で、G1と僕の「前提」の違いを洗い出す作業を試みることを宣言した。この作業を始める上で、まず、tvsjohnさんから頂いた応答に着目したい。一部を抜粋する。なお、ここでいう「価値体系」は、前回の記事で取り上げた「前提」とほぼ置き換え可能だと解釈している(*1)。

G1カレッジ内部の価値体系からは価値のない批判とされているものを、southwisteriaは個人的視点から価値ある批判だと論じ、G1カレッジがそれを価値がないとして排斥しているのはおかしいと言っているのに他ならない。Southwisteriaの投稿に欠けているのは批判の価値の相対性への理解であり、これがゆえに論旨が一方的なものになっている。 

G1と僕は異なる価値体系を持っている。それ故に、批判の価値についても認識のズレが生じる。しかし本記事は、価値体系の違いとその背景を分析することなく、自分の価値体系を押し付けるような一方的な主張をしている。僕はtvsjohnさんの指摘をこのように理解している。そしてこれは正しい指摘だと考えており、一面的な主張になってしまったことを反省している。

この反省を踏まえ、今回の記事で試みるのは前々回の記事の再主張ではなく、両者の主張の分析である。具体的には、以下の三点について述べたい。

  • G1の前提とその背景
  • G1と僕の前提の相違
  • 相違を踏まえた上での方針

(*1) より正確に言えば、「価値体系」とは「前提」の一部である。しかしここで特に問題になるのは「前提」のうちでも特に「価値体系」の部分であるため、ここでは両者は置換可能だと考えた。

 

「提案主義」としてのG1

G1の社会認識

G1はどのような価値体系を持っているのか。言い換えれば、G1は何が大事だという前提を持っているのだろうか。それを考えるために、G1カレッジ開催の目的(コンセプト)を改めて引用する。

今、日本社会は、経済や金融・産業・行政・教育など、様々な面で構造改革に迫られています。 改革期だからこそ、あらゆる分野で新しいリーダーが求められ、一人ひとりが自分の意思のもとに主体性を持って社会に関わり、イノベーションの担い手となっていくことが期待されます。(中略) 次の10年・20年後の日本のビジョンを描き議論することで、そこで生まれる提言・繋がり・熱量が世の中を変えていく。そんな大きな原動力を創りたいという想いで、G1カレッジは立ち上がりました。 (後略)

まとめると、以下のようになる。

  • 社会は構造改革に迫られている。
  • そのため一人一人がイノベーションの担い手になることが期待される。
  • 世の中を変えていく原動力を作るためにG1がある。

ここで前提とされているのは、 「社会は変革されなければならない」という価値観である。これは昨年度のG1カレッジのテーマ"What will you do tomorrow?"にも端的に現れているように思うし、また、G1カレッジ元運営の徐さんのnoteでも垣間見える。

そのように理解した上で,あえて反論すると,やはりアクションベースで語らないと社会は前進しないので,どう考えても「批判よりも提案を」だと主張します(集合関係を上述のように整理する限り)。

「社会の前進」というのは先述の「社会は変革されなければならない」という価値観と類似しているように思える。社会には問題があり、それらは変革によって解決されなければならない。社会の問題は喫緊に解決すべきなので、提案を重ねて変革を進めていかなければならない。変革のために、我々はまず具体的な行動を起こさねばならない。これがG1が共通認識として持っている価値観である。以下、G1のこの価値観を、「提案主義」と呼ぶ。

「提案主義」の背景にあるもの

では、提案主義の背景にあるのはなんだろうか。つまり、彼らはなぜ「提案」や「変革」を強く志向するのだろうか。ここについては様々な説明が可能だろう。友人のTさんとのやりとりの中で、Tさんが面白い考えを示してくれた。以下、Tさんの主張の一部を引用する。

制度は機能不全に陥っているのに既存の「力」では対処できない。議会における民主的手続きは時間がかかるわりには何もなさない。ならば政治とは別の領域、ある意味では「社会」の側が変革の主体にならなければならない。その担い手は選別された、根から外れている「社会エリート」だということになる。制度の機能不全に立ちすくむ国家に対してこの社会の側がアプローチを仕掛けないといけない。
国家はなぜ立ちすくむか。それは政治のあり方がおかしいからである。そして制度疲労に対してはすぐさまアプローチしなければならない。そこで邪魔になるのは批判などである。批判を受けて物事が進まないのはそれは既存の政治のあり方そのものではないか。物事を進めるためにはそれを一旦停止する批判ではなく提案をあるいは対案を。変革するのは既定路線であとは提案と対案だけ。その路線がそもそも必要かどうかは議論しません。なぜならとにかく変わらないといけないからです。それでとりあえずこの道で変わることに決めたのです。以上。あとはこの方向をどういう風にいいものにしていくか。提案、対案ならお受けします。(後略)

 Tさんは、G1が行動による変革を志向する姿勢の背景を制度の機能不全に見出す。問題に対してすぐさまアプローチしなければならないのにも関わらず、現状の制度(批判的な検討をする機関)は機能していない。それ故既存の制度を離れた外部的なアプローチが求められているのであり、その原動力たるのがG1なのだ、という解釈である。物事を一旦停止する行為である「批判」が、彼らの価値観に不適合なのも、こう考えれば当たり前である。彼らにとっては、行動を阻害する「批判」は「難癖」でしかなく、集団の目的を阻む邪魔者である。

これはあくまでも一つの仮説でしかない。しかしこれはある一面を的確に捉えているように思う。G1参加者は何かしら社会に対して問題意識があり、実際に行動によって社会変革をなしてきた人が多い。それも議会や制度などではなく、個人ベースのアクションによる変革が多いように思う。それ故彼らは、個人の行動によって社会を変えることの正しさや可能性を前提にしている。そして先述のようにそのプロセスと「批判」は相性が良くない。結果として、彼らは組織としての目的追求過程における合理的取捨選択によって、「批判」を放棄する傾向を持つようになる。これが、「G1はなぜ『批判より提案を』なのか」という問いに対する僕の暫定的な理解である。 

 

「批判主義」としてのブログ記事

僕の社会認識

では、一方僕はどう考えているか。僕は「社会は変革されなければならない」という前提を必ずしも共有していない。確かに、社会にはたくさんの問題があり、それらは提案による変革によって解決していくべきものなのかもしれない。しかし、変革のもたらすものが常に「改善」とは限らない。社会において何かを変革した時、その影響は広範囲に及ぶ。それはもちろん悪影響を含めて、である。そして多くの場合、その変革は取り返しがつかない。その変革がうまくいかなければ取り消せばいい、というほど、変革は単純なものではないと僕は考えている。変革の対象が大きくなればなるほど、複雑さは増加し、その変革によって影響を受ける人々が増えていく。もちろん社会に変革が必要ないというつもりは毛頭ない。しかし、変革は社会の多くの人々に影響するのだから、変革者にはその影響について、しっかりと考える必要がある。

ここで重要になるのが批判的な思考である。変革のためのを実行に移す前に、一歩立ち止まって考え、その提案についてあらゆることを可能な限り検討する(例えば「この提案によって誰が影響を被るのか」「社会はどう変わるのか」「それによるネガティブな影響は何か」「意図したことが本当に起こるのか」など)。別に僕は保守主義者ではないし、今の社会に変革されるべきところは溢れていると思う。しかし、だからと言って、どんどん変革を進めよう、そのためにどんどん提案しよう、という考え方にはならない。社会のためにならない提案は適切に破棄されるべきだし、我々はあらゆる変革に対し、まずは批判的思考と共に、慎重に検討すべきだと僕は考えている。今回の記事では、便宜的にこれを「批判主義」と呼びたい。「提案主義」は、提案の妥当性や正当性を吟味する段階を意図的に欠落させてしまうことがある。それは社会を変革する人間として無責任である。それ故に、僕は「批判主義」的な社会認識が、より良い社会を導けると考えている。

なぜ「批判主義」が必要なのか

批判主義はなぜ社会にとって重要なのだろうか。端的に言えば、批判主義は社会をより正しく認識することができるツールを提供するからである。社会について我々が考える時、我々は公平に見えて、極めて偏った考えを持ちがちである。なぜなら、我々の志向はこれまでの人生経験によって形成されており、その人生経験は一人一人全く異なるからである。だから、自らの思い込みだけで社会について考えると、とんでもない勘違いをしてしまう恐れがある。それを救済するのが批判主義である。

批判主義者はまず疑う。自分の認識は正しいのか。間違っているとすればどこか。問題意識は適切か。それに対処する方法としてこれは本当にベストか。自分の意見が偏っていることを認識した上で、対象を徹底的に疑う。その上で、暫定的な答えを仮置きする。これが批判主義者のアプローチだ。

社会に生きる人々は、当然一人一人全く異なるバックグラウンドを持つ。その全員にとってポジティヴな結果を生み出す変革などほとんどない。しかし我々は身の回りで傷つく人がいなければ、時としてその変革は万民にとってのベストだと思いがちである。しかしその変革によって、深刻な悪影響がいつか誰かに生まれるかもしれない。もちろんそれを恐れて変革をしないのは間違っているが、その影響を正しく把握することにベストを尽くさないのもまた間違っている。社会を変革する際には社会を正しく眼差す必要があり、そのために、批判主義的な物の見方が必要になるのだ。

「批判主義」を提示した理由

ここでいくら強調してもしすぎることがないのは、「提案主義」と「批判主義」は価値観の相違であり、どちらかが常に正しいというわけではないということである。「批判主義」によって物事が遅々として進まず、結果として変革の波に乗り遅れるということもあるだろう(昨今の日本社会はこのようなことが多いような印象を受けるのも事実である)。また、批判があまりに微細な部分ばかりを攻撃するため、枝葉末節にこだわってしまい、大局を見逃すということもあるだろう。批判にこだわるあまり、適切な批判の取捨選択がなされることなく、「難癖」的な批判に終始してしまうこともありうる。「批判主義」を名乗るものとして、それが引き起こしてきた弊害を無視するわけにはいかない。(実際、僕への反論のうちネガティヴなもののいくつかは、これらの「批判主義」が生む弊害への警戒から来ていた。)

僕が意図しているのは、提案主義者を批判主義者に「転向」させることではない。G1の雰囲気を「提案主義」という言葉によって可視化し、その対概念としての「批判主義」を提示することで、G1という集団の見せかけの中立性を覆し、改めてG1は組織として何を目指すかを考える契機を生み出すことが、僕の試みであった。「批判主義」が「難癖」に堕落してしまうことがあるのと同じように、「提案主義」もまた「思考停止」に陥る可能性がある。それについては詳しくは前々回の記事で言及したが、G1が社会変革を志す以上、「思考停止」的な提案主義は社会に大きな悪影響を与えうる。G1参加者の社会に対する熱意が結果として社会にマイナスの影響を与えることほど滑稽で、また悲しいことはない。しかし現状の構造では、それは起こりうる未来として僕には想像できた。それ故に今回、僕はこのような形でG1に意見した次第である。

 

両者が存在することの意義 

ここまで、G1と僕の対立を「提案主義」と「批判主義」という分類によって整理した。繰り返すが、G1は、それを彼らがどれくらい自覚しているかはさておき、明確に「提案主義」的な集団である(それは僕のブログに対する応答によってさらに明らかになった)。一方、本当に社会を変革したいのであれば「批判主義」的な思考も重要である。しかし、「提案主義」的な発想を持つ人ばかりが集まりすぎている(あるいは支配的な発言力を持っている)ために、G1には「批判」というものを軽んじる風潮がある。それはG1の目的である「社会変革」にとって明らかなマイナスである。その現状を自覚した上で「批判」あるいは「批判主義者」それ自体にもっと価値を見出す場であってほしい。用いる語彙や論理関係に多少の変動はあったが、これが僕が今回の件を通じて一貫して伝えたかったことである。

では、我々はいかにして共存していくべきなのか。個人の信条として、僕は批判の方が提案より重要だと考えている。しかしそれは、提案は批判に優先すると発想する人々を排除しない。むしろ逆である。自分が批判主義者だからこそ、提案主義者は僕にとって一番の「批判家」となる。だから、批判主義の理念をよりよく実現するためにも、換言すれば、批判的思考を自らに対しても向けるためにも、提案主義者という異質な存在は批判主義者こそ大切にすべきだと考えている。批判主義者一般に言えるかどうかはわからないが、本当の意味で批判を重要視しているのであれば、自らを批判する契機になる存在は何より重要だ。だから僕は、是非とも提案主義者と共に思考し行動したいと考えている。

しかし、逆に、提案主義者にとっての批判主義者はどうだろうか。批判主義者は提案に水を差す。それが社会にとって正しい姿だと信じているためだ。しかし提案主義者から見れば、一見批判主義者は「提案の邪魔ばかりするペダンティックルサンチマン野郎」にしか映らない。結果として「じゃあ出ていけ」という結論も考えられうる(実際に僕は複数のチャンネルでそのようなことを言われた)。結果、提案主義者は提案主義者だけで集まりやすくなる傾向がある。その方が提案がつつがなくなされるからだ。しかし、そのような人ばかり集まる集団が、本当の意味で「社会変革」を掲げることはできるだろうか。

僕は批判主義と提案主義は両輪だと考えている。批判によって問題意識がクリアになり、提案によってそれを解決する。提案によって得られた結果が、新たな批判的思考を生むこともある。それらが両輪として機能してこそ、社会変革は正しくなされると僕は信じている。だからこそ提案主義者は、批判主義者を排除すべきではない。なぜなら批判の目的は提案の妨害ではなくより良い社会の実現だからである。G1のように、提案主義者の声が大きくなる空間こそ、提案主義者は「批判」の意味をしっかりと理解する必要があると感じる。もちろん、批判主義者もまた、多くの提案が世の中を変えてきた事実をしっかりと理解する必要がある。その上で我々はよきパートナーとして、社会の問題に取り組むべきだ。そのような健全な空間としてのG1を、いちOBとして切に期待するものである。

 

追記

G1をテーマに書いてきたが、これはG1だけに止まるテーマではない。

  • 楽観主義から急進派になりうる提案主義
  • 悲観主義から懐疑派になりうる批判主義

この両者をどのように位置づけるかというのは、先述のTさんも指摘するように、極めて興味深いテーマである。中庸か、止揚か、脱構築か。僕はまだ、その答えを持っていない。

「わからない」のは「難しい」から?

先日、G1カレッジのあり方に対する批判的な投稿をしたところ、様々な方面から様々なリアクションがあった。その過程で思うところがあったので、文章にしたい。これは「様々な」リアクションに対する直接的な回答ではなく、それらを踏まえた上で、今後の回答の方向性を記すものである。

 

なぜ「わからない」が続出したのか

今回の投稿に対する反応は、一見多様なように見えて、実は極めて画一的である。その反応というのは、簡単に言えば、「わからない」だ。コメントの多様性はその言い換えに過ぎない。僕の主張の意図を正しく汲み取った上での応答は、数えるほどしかなかった。これは文章を書く人間として、大いに反省するところである。

なぜこのような反応が生じたのか。それに対する回答として複数の人から挙がったのが「文章が難し過ぎた」である。文章の難易度が相手のリテラシーを超えていたため、彼らはブログの文章を読むことさえできなかった。故にもっと簡単な言葉で丁寧に説明すべきだ。このような主張は多数あった。

もちろん、そのような要素があったことは否定しない。しかし、果たして本当に文章の難易度だけなのだろうか。徹底的に噛み砕けば、このような結果にはならなかったのだろうか。NOとは言わない。しかし同時に、僕はYESだとも思わない。おそらくこの問題は、リテラシーの問題(だけ)ではなく前提の問題である。

 

なぜ塔を建てられないのか

論理を積み木に例えると、議論とは、複数の人間が積み木を積みあって一つの塔を作るプロセスだと言えるだろう。それぞれの設計図を見比べながら、この積み木をどこにどうやって積んでいくかを話し合う行為。それが議論だ。

こう考えると、議論には必要条件がある。それは合意である。合意と言っても様々な合意があるだろうが、ここで特に強調したいのは「どの場所に塔を立てるか?」である。

例えば、あなたが友人のXさんと塔を建てたいとしよう。しかしあなたが必死で積み木を積もうとしているのにも関わらず、Xさんはその積み木を全く別のところに持って行こうとしてしまう。あなたはXさんに対する不信感を強めるだろう。Xさんは何度も何度もあなたの作業を妨害する。結局塔を建てるどころではなくなり、意味不明な行動を繰り返すXさんの人格をあなたは疑い始める。このような状況では、もう塔どころではない。

さて、この不幸は一体どこから生じたのだろうか。バラバラになった積み木の前に神様が降りてきて、なぜこうなったかを両者に聞く。あなたは「Xさんが意味のわからないことをしたから」と言うだろう。しかしXは、「あなたが積み木を運ぶのに全く協力的でなかったから」と言う。よくよく話を聞いてみると、どうやらあなたが塔を建てたかった場所とXさんが塔を建てたかった場所が全く異なることがわかった。Xさんは積み木をそこまで運ぼうとしていたのだが、あなたにはそれが理解できなかった。

「それならそうと言ってくれればよかったのに」

「いや、何度も言ったが聞く耳を持たなかったのはお前じゃないか」

確かにそうだ。あなたは塔をこの場所に建てることを両者が合意していると思い込んでおり、その思い込みから判断して、「Xさんはおかしい。私はXさんを理解できない。」と思い込んでしまった。こう思い込んでしまった瞬間、あなたはXさんの意見を素直に聞くことができなくなる。Xさんの意見を受け入れなくなる。するとXさんも、あなたの意見を素直に聞くことができなくなる。結果として、塔は完成せず、残ったのは徒労だけ。「両者が塔を建てたい場所がずれていたことに両者が気づいていなかった」というたった一つの失敗が、致命的な断絶を生み出したのだ。

 

「前提」の共有を諦めない

少し乱暴だが、これは議論を建築に例えた話だ。「塔」とは「議論のゴール」であり、「積み木」が「論理」であり、「共同建築作業」が「議論」である。そして、この「塔を建てたい場所」が「前提」と呼ばれるものだ。この例え話は「前提」の重要性を示唆している。

「前提」とは「議論のスタート地点における合意」である。デカルトを引用するまでもなく、議論をするためには、所与のものとして両者が無条件に認めなければならないものがある。それが「前提」である。

例えば、乱暴な具体例であることは百も承知で、「有村架純武井咲はどちらが可愛いか」という議論をすることを考えてみよう。あなたは有村架純だと思い、Xさんは武井咲だと思ったとする(逆でも構わない)。この時、あなたはXさんと合意することはおそらく不可能である。なぜなら、「可愛い」とは何かということについて合意できていないからだ。だからまずあなたがXさんと議論すべきは「可愛いとは(少なくともこの場において)どういう意味か」である。例えば「可愛いとは妹を思わせるような柔らかな愛らしさである」という合意ができて、初めてあなたはXさんと有村架純武井咲はどちらが可愛いか」について議論できる。それぞれが出演するドラマや映画を見た上で、どちらが「可愛い」の基準に合致しているかどうかを二人で判断して検討することができる。このような議論こそが、意味のある議論である。

この「前提」が共有されていない時、どのような言葉で語ろうとあなたとXさんは対話できない。なぜなら、「前提」は語られないからである。だから対話が断絶したと感じた時、まずあなたがすべきことは、Xさんに対する説明を平易な言葉で述べることではない。もちろんそれもすべきかもしれないが、それは副次的なものでしかない。まずすべきは、「両者が同意しているところはどこまでで、どこで相違点があって、それは何によるものか」を明るみに出す作業である。僕はこれを行いたいと思う。少し時間がかかるかもしれないが、お待ちいただけるとありがたい。

提案よりも批判を ~G1カレッジ批判~

G1カレッジで覚えた違和感

昨日、G1カレッジのリユニオンに参加した。G1カレッジとは簡単に言えばG1サミットの学生版である。ではG1サミットとは何か。ホームページから引用する。

混迷する世界にあって、次世代を担うリーダー層が集い、学び、議論し、
日本再生のヴィジョンを描くための場にしたいと考え、「G1サミット」は生まれました。(中略) G1サミットでは、政治・経済・ビジネス・科学技術・文化など、様々な分野の第一線で活躍する同世代の仲間が、互いに学び、立場を超えて議論し、未知の領域であった知恵を自らの糧としながら、良き仲間を得て、リーダーとして自身も周囲も成長していくことを趣旨としています。 

その上で、G1カレッジのコンセプトをホームページから引用する。

 (前略) 次の時代を担っていくのは、紛れもなく、10代後半や20代前半の皆さんです。G1カレッジという選ばれた次世代リーダー達のネットワークの中で、日本や世界で既に活躍しているリーダーたちとの連携を加速し、継続的にイノベーションが生まれるコミュニティとなることを願っています。

大体のイメージはこれで掴むことができるだろうか。長々と引用してきたが、とある先輩の言葉を借りれば、要するにこういうことである。

たぶん、日本で一番「意識が高い」イベントでしょう。それもよくある「意識高い系」じゃなくて、ガチガチのガチのやつ。

ありがたいことに、G1カレッジが始まった2014年から僕はこのイベントに参加させていただいている。しかし、失礼を承知で申し上げれば、僕はG1カレッジを心から楽しんだことは一度もない。正直に言えば、いつも正体不明の違和感を抱えながら、何となく参加していた。今回リユニオンに参加して、 その「正体不明の違和感」をある程度特定することができたのでここに記したい。結論から言えば、それは「内輪のノリで物事を進めていこうとするために相互批判的なプロセスが欠如した雰囲気」であり、その背景には「「批判に対する誤解による批判の軽視」がある。G1は大きな指針の段階から既に批判を軽んじており、その悪弊が具体的な部分まで現れている。以下、順を追って説明したい。

 

G1の行動指針から見えるもの

G1サミット・G1カレッジは行動指針として以下の3つを挙げている。

  1. 批判よりも提案を
  2. 思想から行動へ
  3. リーダーとしての自覚を醸成する

ここで注目すべきは、行動指針1と2の差異である。2の構成要素である「思想」と「行動」の両者の関係性は並列である。まず「思想」があり、それが「行動」につながるという構造となっている。一方、1の構成要素の「批判」と「提案」には、明確な上下関係がある。後者がより重要であり、前者は重要な要件として見られていない。

行動指針1単体であれば、「批判も重要だがそれを提案に繋げるのも重要だ」と好意的に解釈することも不可能ではないが、2の存在がそれを否定する。批判の重要性を少しでも感じているのであれば、2と同様に「批判から提案へ」と表現すれば良い。1の行動指針の中には、「批判」という行為の価値を一段階下げようという意思が感じられる。

ではなぜ「批判」はこのように軽んじられているのか。その背景には、「批判」という言葉の解釈に関する認識の相違があるように思われる。

 

批判とは何か

「批判」という言葉を巡っては、先日とあるツイートが炎上したことが記憶に新しい。

森友学園加計学園のスキャンダルや共謀罪強行採決などの経緯もあり、この「批判なき選挙、批判なき政治」 は「権力に対する批判を許容しない」という主張として解釈されて大きな反発を呼んだ。それに対し、ハフィントンポスト編集長の竹下隆一郎氏は、このことを取り上げた記事内で、以下のように分析する。

今の日本は、どこか空気を壊さない「ノリ」が求められている。また、人口が減り続けて、明るい未来が描けない中、日本の政治はサクサクと物事を決めないといけない。そんな状況の中、今井氏にとって批判という言葉は「すっごい悪いことって意味」で使われているのかもしれない。

 以下は先述の記事で引用されていたブログの一節である。(かっこ内は竹下氏)

「(今の若者や子供達にとって)『批判』は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。」

すなわち、今井氏の用いていた「批判」の定義は「難癖・言いがかりをつけて政治の邪魔をすること」という極めてネガティヴなものである。それ故に、政治家であるにも関わらず「批判なき政治」と簡単に発言できてしまったのだ。

では、「批判」とは本当にそのような意味のものなのだろうか。明鏡国語辞典第二版によると、「批判」という言葉は以下のように定義されている。

物事に検討を加え、その正否や価値などを評価・判定すること。特に、物事の誤りや欠点を指摘し、否定的に評価・判定すること。

これによると、「批判」という言葉それ自体に難癖や言いがかりのニュアンスはない。物事を妨害することではなく、その正否や価値を評価することを差す言葉である。物事を検討する上でなくてはならないプロセスであり、ここでの判定を元に、改善案や打開策が提案されるものだ。巷でクリティカル・シンキング(批判的思考)という横文字が流行して久しいが、この思考の必要性が喧伝され続けているのも、「批判」が物事を正しく評価し問題点を適切に洗い出すために必要だからこそだ。グロービス「クリティカル・シンキング講座」なるものを開講している。ここでの「クリティカル(=批判的)」は、おそらく明鏡国語辞典の定義に近しいものだろう。そうでなければ講座など開く意味がない。

しかしG1の行動指針に関しては、残念ながら、先述の今井氏の定義に乗っ取っていると言わざるを得ない。「批判」は「難癖」であり、物事を前に進めない。だから「批判」ではなく「提案」を要求する。このような意味であれば、行動指針1はすんなり理解できる。もし明鏡国語辞典的な定義に従っていれば、行動指針1は「批判から提案へ」となるはずだ。なぜなら、繰り返しになるが、批判とは物事の検討と価値の評価であり、提案にとっての必要不可欠な構成要素だからだ。

G1は、「批判」の定義として「価値評価と改善のためのプロセス」ではなく「難癖・言いがかり」をどちらかと言えば色濃く用いている。その結果、「相互批判による価値評価と改善のためのプロセス」がG1カレッジにおいて欠落し、G1発のアクションに悪い影響を及ぼしている。次項でそれについて説明する。

 

「G1カレッジ発」の問題点

 G1カレッジ発のアクションとして、OPEN POLITICSが挙げられる。OPEN POLITICSとは、「すべての世代に被選挙権を。OPEN POLITICS―“政治”を全世代に開放する。今、政治を変えるとき。」をステートメントとして掲げる学生主体の政治運動である。G1カレッジ2015の政治分科会から生まれたアクションであり、G1関係者の政治家などを巻き込んで、被選挙権取得年齢を18歳に引き下げることを目標に活動している。

予め断っておくが、僕はこの活動に多大な敬意を表したいと思っている。また、これに関わる友人も、皆尊敬できる人ばかりである。だからこそ、この運動についての意見を忌憚なく記したいと思う。OPEN POLITICSの全てを知っているわけではないので、以下の批判は一面的になってしまうかもしれない。不備があればぜひ、この記事を批判してほしい。

OPEN POLITICSの掲げるメッセージはとてもビジョナリーである。確かに、被選挙権取得年齢が18歳になったら、なんとなく、若者に対して開かれた政治になるような気がする。しかし、逆に言えば、ビジョナリーでしかない。OPEN POLITICSは活動目的を「被選挙権年齢の引き下げ、多様な世代の声が反映される政治の実現。」と定義している。おそらく前者によって後者が実現されるということだろう。すなわち最終目的は「多様な世代の声が反映される政治の実現」である。(もしそうでなければ被選挙権年齢引き下げそれ自体が目的化しているということであり、この運動の正当性が担保できない。)しかし、このウェブサイトには、なぜ前者によって後者が実現されるのかの具体的な説明がない。多様な世代の声が反映される政治は、なぜ選挙権年齢の引き下げだけでは実現しないのだろうか。多様な世代の声が反映される政治という目的に対して、なぜ被選挙権年齢の引き下げが効果的なアプローチと言えるのか。そもそも、なぜ「同世代の政治家」は自分と「同じ分の責任を背負って」いると言えるのか。本来運動に際して最も強調すべきこのような部分が、このウェブサイトではふわふわした言葉によってなんとなく示されているだけで、「被選挙権年齢引き下げが多様な世代の声を反映することにどう繋がるのか?」という問いに対する具体的な回答がない。

別に完璧な論理武装をしろと言いたいわけではない。しかし、アクションを起こすのなら、そのアクションをどう位置づけるのかのロジックは明確に通すべきであり、それをしっかり明示するべきだと僕は思う。被選挙権年齢が実現すればおそらく多くの人に影響が及ぶが、その全ての人に対する説明責任をこのウェブサイトは果たせるだろうか。正直言って、到底そうは思えない。

このOPEN POLITICSにおける「ビジョナリーなだけ」問題こそが、先述の「批判より提案を」の悪影響だと僕は解釈している。彼らの主張には、批判(より正確に言えば批判的思考)がない。少なくとも、このウェブサイトからは「被選挙権年齢を引き下げれば、なんか若い世代の声も拾えそうだよね」程度のメッセージしか見えてこない。被選挙権年齢引き下げというイシューは、「本当にそうか?」「本当にそれだけか?」という思考に一体どれだけ晒されたのだろう、と疑ってしまう。率直に言って、ナイーヴすぎる。もちろんこの新たな取り組み自体の価値を否定する訳ではないが、何か新たな枠組みを提示することを優先するあまり、そしてその枠組みが無批判に支持されて膨れ上がってきたために、内部での相互批判と検証のプロセスが十分でないまま世の中に出てしまった印象を受ける。新たな提案をするのは素晴らしいことだが、提案は常に批判によって研ぎ澄まされていくものである。その意味で、この提案は、まだまだ研ぎ澄ます余地が大いにあるように僕には思える。OPEN POLITICSは、G1の「提案」に対して「批判」しないというスタンスが、提案を未熟なまま大きくしてしまった好例だ。

今回は例としてOPEN POLITICSを引き合いに出したが、別にこれだけが悪いわけではない。G1カレッジでは全体として、何かを変えることに意識を向けすぎており、本来生じるべき批判を学生(と社会人)の熱狂的なノリによって覆い隠している印象を受ける。OPEN POLITICSはその象徴として、僕の目には映っている。

 

提案よりも批判を

以上、G1の行動指針における「批判」の軽視、その背景にある「批判」についての誤解、そしてそれが具体的な悪影響を及ぼした例としてのOPEN POLITICSについてそれぞれ語った。最後に、批判についての持論を少し語る。

僕は先日、基地問題を切り口に、論理と価値観の関係性について書いた。ぜひ一読していただきたいのだが、簡単に要約すれば「議論する上でお互いの意見の相違の原因を理解するためには、価値観の相違まで遡って議論しなければならないが、そのためには相互にリスペクトを持ち、お互いがお互いの最高の理解者になろうとする姿勢が重要である」という趣旨である。批判についても、僕は同様に考える。批判する人間は、相手の最高の理解者にならなければならない。批判とは、相手をリスペクトし、相手を理解した上で、相手に欠けているものを指摘する営みだ。さもなくば、批判は表層的な「難癖」になり、「物事に検討を加え、その正否や価値などを評価・判定すること」が不可能になる。「批判」を「難癖」から救済する敬意を忘れてはならない。

これがよくわかるのがジャーナリズムだと僕は考えている。ジャーナリズムとは、社会によって虐げられた人、不利益を被っている人に光をあて、問題として提示し、社会の関心を問題に向ける営みだ。すなわち、ジャーナリズムとは「批判によって社会を動揺させ続けること」だと僕は思っている。しかし、動揺させるために嘘をついてはいけないし、誰かを傷つけてもいけない。良いジャーナリストは、社会を誰よりも深く理解し、当事者に対して敬意を持って接する。その上で、社会の矛盾を指摘し、より良い社会に向けての動きを作り出すのだ。

ここで、重要なことがわかる。それは、批判は必ずしも提案を伴わなくても良いということだ。貧困問題を取り上げたジャーナリストに対して「じゃあお前は貧困問題を解決できるのか?具体的な提案ができなければ黙ってろ!」というのは「難癖」である。社会に対する批判によって、新たに可視化される問題があり、それは直接的ではないかもしれないが、何かしらその問題解決の前進に寄与している。提案できなければ批判できない世界では、批判が萎縮し、結果として問題提起自体が消滅してしまうという最悪な状況を生んでしまう。世界が変革される時には、まず批判があり、それに伴って提案がある。これを決して忘れてはならない。

だからこそ敢えて言おう。提案よりも批判を。その場のノリと熱狂で生まれる空疎な提案より、緊張感ある対話と絶えざる思考による批判を。物事の問題を正しく見極め、社会を動揺させる批判を。意義ある提案は、意義ある批判からしか生まれない。だからこそ、創造と変革の志士にまず求められるのは、この批判的精神ではないだろうか。提案よりも批判を、批判からの提案を、今後のG1カレッジに期待したい。

ここまで読んでいただいた読者の方々はお分かりかと思うが、これもまた一つの「批判」である。甘い部分や認識不足も多々あるかと思われるが、それに気づいた場合はぜひこの記事を「批判」していただきたい。その「批判」の雰囲気こそがこの記事の望むものである。直接的か間接的かは問わず、この記事によってG1カレッジのコンセプトや運営方法についての活発な議論が巻き起こり、結果としてG1カレッジのこれからに寄与することになれば、「批判」の重要性を説いた筆者として望外の喜びである。

基地問題から考える論理と価値

M君の語る沖縄

先日、留学帰りの僕とぜひ話したいということで後輩のM君が声をかけてくれた。渋谷のマクドナルドで語らう僕らはきっと高校生に見えたに違いない。今日はその時の話をする。詳細は伏せるが、M君は友人と共に沖縄に行き、基地問題について多くの人に意見を聞いたらしい。その経験を踏まえて、M君は以下のような感想を抱いたようだ。

「基地反対派の運動家は理想ばかり語っていて理性的じゃない。客観的に見て、彼らの意見は説得力がない。一方で、基地を認めた上で現実的に対応しようとする人たちの意見には心から共感できた。」

まず、僕は沖縄の基地を訪れたことはないし、基地問題の当事者に話を伺ったこともない。なので、実際に誰がどのようなことを言ったのかについては全くわからないことをここで断っておく。加えて、基地問題についての僕の持論をここで展開するつもりもない。ここで行いたいのは、M君の感想の中に隠れた前提を丁寧に洗い出す作業である。

 

理想とは。現実とは。客観的とは。

あらゆる主張を考える時には、まず初めにそれを構成する言葉がどのように使われているかを考えなけれればならない。では、M君の主張における「理想」「現実」「客観」とはなんだろうか。M君の言葉を借りつつ考える。まず、「理想」とは、米軍基地がなくなり安全保障の課題も解決される状態である。これができれば確かに理想的である。しかし、M君はそれは実現不可能だと考える。「現実」とは、安全保障上の課題をクリアしつつ、段階的に基地機能を縮小していくことだそうだ。反対派には具体的なプランがない、あるいは実現がほぼ不可能であるのに対し、容認派には具体的なプランがある。「客観的な判断」とはおそらくそういうことだろう。M君曰く、両者をフラットに価値中立的に見た時に、容認派の方が筋が通っていると判断したそうだ。

この判断の結果についての反論はない。しかしその前提となる部分である判断の根拠については一考の余地があるように思える。M君が容認派に共感したのは、果たして容認派が理性的で、反対派が理性的でなかったからなのか。おそらくそれは違う。M君の価値観が、反対派のそれより容認派のそれに近かったのだ。

具体的に説明する。容認派と反対派の考え方は、結局は価値観の優先順位の差異に過ぎない。容認派の多くは政府や自衛隊の関係者である。彼らは職務として、国益を最優先に考える必要がある。国全体の利益を最大化する政策が彼らにとって良い政策なのだ。つまり、簡単に図式化すれば日本(国益)>沖縄(生活)なのだ。

一方、反対派は地元の活動家の方々が多い。彼らは実際に基地によって生活の一部が妨害された人々や、その支持者である。彼らの要求することは、自分や自分の大切な人の平穏な生活を守ることであり、様々なリスクの原因たる米軍基地はその生活を脅かしうるものだ。同様に図式化すれば沖縄(生活)>日本(国益)なのだ。

論理は時に積み木に例えられる。正しい論理構成とは、正しく積み木を積む作業と近しいものがある。それに乗っかって誤解を恐れずに例えれば、価値観とは積み木を積む土台となるものだ。価値観の対立は論理では対応できない。論理的推論によって導かれる最善の価値観など存在しない。なぜなら、価値観は論理に先立つものだからだ。例えば、イヌとネコどちらが好きかは価値観である。ネコが好きな人にイヌが優れている理由を論理的に述べれば、世界のネコ好きはイヌ好きに寝返るだろうか。もしかしたら何名かは意見を変えるかもしれない。しかし大多数はそのままだろう。なぜなら、イヌとネコどちらが優れているかなんて論理的には判断できないことだからである。イヌとネコという例えが嫌いなら、自由と平等でも保守とリベラルでも好きな言葉を代入していただきたい。

M君の話に戻ろう。彼は首都圏出身であり、外交官志望であることもあってか、国益を優先すべき、という価値観を強固に内面化していた。そのような視座に立てば、当然同じ優先順位を持つ人々の意見は理性的に、異なる優先順位を持つ人々の意見は非理性的に聞こえる。それ自体は誰しも起こりうることなので仕方ない。問題は、そのことを彼が全く自覚していなかったところにある。彼は自分が論理的な存在であり、それ故に価値中立的な存在であると思っていた。その結果、価値観の相違から来る違和感を、全て相手の「非論理性」「非理性性」として解釈してしまっていたのだ。

 

議論する相手の一番の理解者たれ

異なる意見に違和感を覚えるのは当然である。問題は、その原因が価値観の相違(M君の場合は日本と沖縄の優先順位の違い)であるということに気づき、相手がなぜそのような価値観を抱くに至ったのかをお互いに問い合うことである。それは、互いに相手を理解するために全力を尽くし、議論することのできる土俵はどこかを二人で共に探す営みである。

ここでわかるように、議論とは相手への最大限のリスペクト無くしては成立しない。なぜなら、互いの価値観を理解しようとするには相互に信頼がなければならないからである。自分たちの意見の相違の源泉を探り当てることは、どちらか一方だけでできることではない。ましてや、価値観の相違に無自覚で、相手の意見を「理性的でない」と切って捨てるような人間を前にして、果たして相手はお互いの価値観をぶつけ合おうと思えるだろうか。沖縄まで行った彼の行動力は賞賛するが、論理の価値中立性に対する無批判な信頼と、その認識に対する無自覚さ故に、彼はたくさんの機会を損失したことだろう。

さらに、沖縄のケースで言えば、沖縄>日本と考える人が沖縄市民なのに対して日本>沖縄と考える人は行政や軍人である。すなわち、ここで既に権力的な非対称がある。後者は直接的決定権を握っているが、前者は選挙によって間接的な意思表示をすることができるのみである。その両者が対話する際には、権力側にある人間は、この非対称性についてはっきりと意識した上で語らねばならない。例えば、反対派が理想論ばかり語るのは、彼らにできることは政府方針の変更を求めることであり、現実的な側面ばかり重視すれば政府側に取り込まれてしまうと考えるからではないか。そうすると彼らは自覚的に理想論を強調しているのかもしれない。これはあくまでも一例だが、このような想像力なくして、立場の異なる相手との対話は難しいだろう。マクドナルドでの対話を経て、M君もこれらについて自覚的に考えてくれるようになると思う。彼のこれからの活躍に期待したい。

最後に、高校時代に出場したディベートの世界大会で僕が最も印象に残っている教えを紹介したい。「相手の議論の揚げ足を取るのではなく、相手の議論の一番の理解者となれ。もし相手の立論が至らなければ、補完して完璧にしろ。その上で、それを超える主張ができれば、誰がどう見ても君の勝ちだ。それが最良のディベーターというものだ。」

解説は不要だろう。最良のディベーターになれたかどうかはわからないが、最良の対話者たろうとする気持ちは常に持ち続けていたい。

 

 

 

 

注目する責任について

母校との思わぬ出会い

先日、何の気なしにツイッターを見ていたら、母校の校長先生が書いた論文がシェアされてきた。「謂れのない圧力の中で」と題されたこの論文はツイッター上で爆発的にシェアされた。特に知識人層を中心に、校長の毅然とした対応を賞賛する声が多かったように思う。しかし聞いた話によれば、この文章は随分前に校長先生が個人名で同人誌に書いたものであり、現在はこのような嫌がらせは沈静化しているという。ではなぜ、今になって、これほど爆発的にこの文章がシェアされたのか。

 

黒塗りと付箋

少し調べてみると、どうやら2017年7月30日に放送された「MBSドキュメンタリー映像'17 教育と愛国~いま教科書で何が起きているのか」が事の発端であるようだ。以下、MBSドキュメンタリー'17公式ページより引用。

「善悪の判断」・「礼儀」・「国や郷土を愛する態度」…20以上の徳目がずらりと並びます。
それらを学ぶための読み物、それが「道徳」の教科書です。来年度から小学校で導入される「特別の教科 道徳」は、これからの時代の教育の要とされています。2020年度に全面実施される新教育課程には「道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行われる」とあり、まさに戦後教育の大転換といえます。
しかし、教育現場では賛否が渦巻いています。その背後では教科書をめぐって、文部科学省教科書検定や採択制度が、政治的介入を招く余地があるとの懸念の声があがっています。これまで歴史の教科書では、過去に何度もその記述をめぐり激しい議論が起きてきました。「もう二度と教科書は書きたくない」と話す学者がいます。「慰安婦」の記述をきっかけに教科書会社が倒産することになった過去の記憶が、いまも生々しく甦ると学者は重い口を開きます。一方、いまの検定制度のもとでの教科書づくりは、何を書き何を書かないか、まさに「忖度の世界」と嘆く編集者もいます。さらに学校現場では、特定の教科書を攻撃するハガキが殺到するような異常事態も起きています。
教育の根幹に存在する教科書。歴史や道徳の教科書を取り巻く出来事から、国家と教育の関係の変化が見えてくるのではないだろうか。教科書でいま何が起きているのか。これまで表面に出ることがなかった「教科書をめぐる攻防」を通して、この国の教育の未来を考えます。

この番組ではいくつかの論点が取り上げられていたが、この話題に関係のありそうな範囲で概略を示す。まず、戦時中日本軍が関わった問題として慰安婦を取り上げた結果、保守派から圧力がかかり、倒産に追い込まれた日本書籍という教科書会社が紹介された。その後、暗記ではなく考える歴史を教えることを目指す教員が集い編集された学び舎の教科書が取り上げられる。日本書籍の倒産以降、自粛の雰囲気があった中で、中学校の歴史教科書から消えていた慰安婦の記述を十数年振りに復活させたのがこの教科書だ。学び舎の教科書は難関私立校とされるところで特に導入されている。

問題はここからである。取材部は学び舎採用の学校に取材を申し入れたが、全ての学校から取材を断られた。その理由は学校に送られてくる大量の抗議葉書である。その内容は、匿名でOBを名乗り、反日教育をやめさせるよう求めるものだ。番組はその送り主を取材したのち、ある難関私立高校の校長がこの一件をまとめた教員向けの論文を紹介した。この論文こそが、まさに先ほどの「謂れのない圧力の中で」である。ただし、葉書に書かれた住所を黒塗りで潰し、論文の個人名を付箋で隠すなど、この番組内では一貫して個人名を特定されないような配慮がなされていた。学校名や個人名が特定されることで、この嫌がらせが再燃し、学校に迷惑がかかることに配慮してのものだろう。各校が取材を拒否したのも、おそらく同様の理由である。

 

無駄になった配慮

しかし結果的にこの配慮は無駄になった。この番組が放送された数日後、ジャーナリストの津田大介氏が「灘校の校長の声明文」として先述の論文を取り上げると、それらは瞬く間に拡散された。(タイムラインを見ていた印象では、津田氏がまず先鞭をつけ、その後インテリ層を中心とした人々が次々にシェアしたように思えたが、もしさらなる発信源が別にあれば指摘していただきたい。)

 津田氏のツイートは、あたかも灘校の校長が、現状に危機感を感じ、灘校としての公式声明を発表したかのように思える。しかし、それはミスリーディングと言わざるを得ない。この論文は教員向け同人誌に個人名で投稿された、いわば内部向けのものであり、社会にメッセージが拡散することを望む「声明文」などでは決してない。この論文が番組に取り上げられた際に執筆者と所属校が伏せられていたことからもわかるように、この論文は匿名の発信としての公開が希望されているものだった。それを「灘校の校長」の「声明文」であると解釈した津田氏の引用は、校長のその意図に一部反するものである。これについては、津田氏は後に訂正のツイートをしている。

もちろん、「声明文」だろうが「個人としての寄稿」だろうが、「文章の価値や、投げかけている問題の重さは変わらない」のは疑いがない。変わるのは、その情報の扱い方である。声明文でない以上、この論文が拡散されることによる影響)への対応を全て灘校に放り投げることはできない。これは私見だが、番組内容などを検討してみると、灘校は嫌がらせの再燃などの悪影響を危惧して、実名での取材を拒否したのだろう。津田氏のツイートは、灘校の意図を結果として全て無駄にするものとなってしまった。

 

注目する責任について

しかしこれを全て津田氏に帰責するのはいささか乱暴だ。番組内で取り上げられた論文が、誰もがアクセス可能な状態にあったこと、そして番組の内容を踏まえれば、誰もが灘校についてのことだとわかってしまうことなど、不運な要素がいくつかあったことは否めない。しかし「少し調べればわかる」という状態では、情報は拡散しない。それらをわかりやすい形で提示し、リツイートボタン一つで広げられる状態になって初めて情報は拡散する。世の中に広げるべき価値について、アクセス可能な形で発信する。本来ジャーナリズムとはそういうものである。だから今回も、津田氏は、ジャーナリストとして、自らの職務を全うしただけとも言える。事実、津田氏の問題提起によって多くの人がこの問題に支持を表明した。それによって勇気付けられた人もいるだろう。社会的な価値は、間違いなくあった。しかしそれを根拠に今回の拡散を正当化するのも、また乱暴である。

社会的な問題に向き合う上で、最も尊重されるべきは、その問題に悩まされる当事者である。今回のように、問題が問題として可視化され拡散されることでその問題が再燃しうるという場合においては、情報拡散は問題解決と逆行する可能性さえある。津田氏を含めて、この問題を拡散し意見を表明した全ての人は、善意と誠実さを持っていることは疑いない。それについては一人のOBとして心からの感謝を申し上げたい。しかし、まさにその善意と誠実さによって、苦しめられうる現場があることを想像した人が果たして何名いただろうか。自分の行為が当事者の問題解決と結びついていないのなら、それはたとえ善意であったとしても、肯定されるべきではないと僕は考える。善意と誠実さのある人間にこそ、その善意がどのような結果に繋がるか、まで思考し続けることを求めたい。それこそが本当の意味での「善」であり「誠実」ではないだろうか。

一人一人が発信者となるこの時代において、注目する責任についての想像力の必要性を痛感した一件だった。

「正しい自分史」という暴力

「留学どうだった?」

先日、心から尊敬する友人の一人と語らう機会があった。その帰り際に、印象的な言葉があった。

僕は数ヶ月前に留学を終えたばかりである。だから帰国後の会話は多くの場合、留学について僕が聞かれるという形式になる。しかしその会での話題は専ら相手の現状であり、僕のことについて話す機会はほとんどなかった。それについて冗談半分で言及した時、友人は以下の趣旨のようなことを言った。

 

「留学はどうだった?と聞くことは留学という体験を言語化・固定化させるということ、すなわちそうでない可能性を排除するものであり、時としてそれは暴力的なのではないか。」

 

友人と別れた後、電車の中で、これと似たようなことを考えた時があったのを思い出した。就職活動やインターンの選考におけるエントリーシート(ES)である(ここでいうESとは、就職活動において、企業に自分をアピールするための書類である)。職歴のない新卒学生にとっての一番の力の入れどころは、その中の自己PRだ。「あなたの強みはなんですか」「学生時代最も力を入れたことはなんですか」「あなたが直面した困難はなんですか、それをどう乗り越えましたか」これらの質問に既に食傷気味の読者もいることだろう。あるいは学生時代を思い出して懐かしむ方もいるかもしれない。

 

結論から言えば、僕はESが嫌いだ。より具体的に言えば、ESを書いている時の自分が嫌いだ。ESを書く時、僕は、あたかもその語りが自分にとっての絶対のように装わなければならない。どのように書いても生じうる違和感を黙殺し、相手企業にとっての最良の人材を歴史的に演じなければならない。まだ自分は面接というものをそれほど経験したことがないが、聞いた話では面接はESに基づいて実施されるようである。考えただけで頭が痛い。

 

正しい歴史と慰安婦問題

そんな時、ふと思い出したのが、随分昔に読んだ『ナショナリズムジェンダー 新版』(上野千鶴子)に掲載されている論文「記憶の政治学」における一節である。上野は本論文において、「慰安婦」問題をめぐって、ジェンダー史が提起した方法論的な課題を論じている。上野の主張自体を論じるのはこのブログの目的ではない。少々乱暴かもしれないが、上記の話題に対する補助線として、上野の指摘する「実証史学」と学問の「客観性・中立性」神話についてこのブログで引用したい。

 

上野は、今日(1997年)の「慰安婦」をめぐる問題は、「強制連行はあったか否か」「日本軍の関与を証明する公文書は存在するか否か」という「実証性」の水準で争われているとする。歴史修正主義に基づく「自由主義史観」の支持者は慰安婦の強制連行を示す公文書がないことを根拠に慰安婦問題の存在を否定しており、それに対して良心的な歴史家は「歴史の真実を歪めるな」と反論する。ここで、「歴史的事実というものが誰が見ても寸分違わないすがたで、客観的実在として存在しているかのような史観」を前提としており、上野は「事実」と「現実」を区別することでこの前提を批判する。慰安婦問題にあるのは単一の「事実」(=客観的実在としての歴史)ではなく、日本軍による「慰安婦制度」と被害女性による「強姦」というふたつの「現実」である。その上で、上野はこう主張する。

 

複数の「現実」の間の落差がどれだけ大きくても、どちらか一方が正しく、他方が間違っているというわけではない。ただし権力関係が非対称なところでは、強者の「現実」が支配的な現実になって、少数者に状況の定義を強制する。それに逆らって支配的な現実を覆すような「もうひとつの現実」を生み出すのは、弱者にとってそれ自体が闘いであり、支配的な現実によって否認された自己を取り戻す実践である。(pp.177)

 

企業にとって正しい自分史

ここで、本題に回帰する。人生史は、社会史や政治史以上に「事実」ではなく「現実」によって語られるものである。誰が見ても寸分違わない客観的な自己など存在しない。自分と他人で当然解釈は異なりうるし、自分の中でも、経験をどう解釈するかで多様な「現実」が生まれる。自己認識とは、そのような多様な「現実」の絶え間なき闘争において一時的に発生した動的な平衡状態に過ぎない。

 

その平衡状態に介入するのがESである。ESには書くべきエピソードや、個別の企業にウケのいい特徴が存在する。つまり、それらに相性の良い「現実」が強者の現実として支配的になり、弱者となる「現実」を圧殺する。就職活動では一貫性が重視されると聞く。しかしここでいう一貫性とは内的に醸成されたものではなく、あくまでも志望する企業から外的に注入されるものである。注入された「企業にとって望ましい存在として一貫性を持つべし」という圧力は、多様な現実の平衡を破壊し、単一の「現実」で自分の全てを語り切らんとする。しかしそれが無理だからこそ、我々の中では多様な現実同士の闘争があるのだ。選ぶ側と選ばれる側の権力的な非対称により、学生の自己認識は権力側に勝手に最適化される。結果として、就活生は、権力にとって「正しい自分史」を持った人間に自らを勝手に再教育していく。統治システムとして、これほど優れたものはなかなか存在しないのではないか。

 

就職後に鬱になる人や過労死する人が社会問題になり始めてから随分経つように思う。原因の一つに間違いなく制度はあるだろう。しかし一方で、このような選考プロセス自体が人に与える影響も考慮されるべきではないだろうか。企業にとって最適化した自己認識の不完全性が引き起こす自己矛盾に耐えられなくなれば鬱になるかもしれないし、自己認識を企業と同一化させ過ぎている人ばかりの集団は、過労死のリスクが高い集団である。ここについての推論は厳密ではないが、働きかけそれ自体の影響の有無、そしてその望ましさについての検討も、あっても良いのではなかろうか。