思記

よしなしごとをそこはかとなく

基地問題から考える論理と価値

M君の語る沖縄

先日、留学帰りの僕とぜひ話したいということで後輩のM君が声をかけてくれた。渋谷のマクドナルドで語らう僕らはきっと高校生に見えたに違いない。今日はその時の話をする。詳細は伏せるが、M君は友人と共に沖縄に行き、基地問題について多くの人に意見を聞いたらしい。その経験を踏まえて、M君は以下のような感想を抱いたようだ。

「基地反対派の運動家は理想ばかり語っていて理性的じゃない。客観的に見て、彼らの意見は説得力がない。一方で、基地を認めた上で現実的に対応しようとする人たちの意見には心から共感できた。」

まず、僕は沖縄の基地を訪れたことはないし、基地問題の当事者に話を伺ったこともない。なので、実際に誰がどのようなことを言ったのかについては全くわからないことをここで断っておく。加えて、基地問題についての僕の持論をここで展開するつもりもない。ここで行いたいのは、M君の感想の中に隠れた前提を丁寧に洗い出す作業である。

 

理想とは。現実とは。客観的とは。

あらゆる主張を考える時には、まず初めにそれを構成する言葉がどのように使われているかを考えなけれればならない。では、M君の主張における「理想」「現実」「客観」とはなんだろうか。M君の言葉を借りつつ考える。まず、「理想」とは、米軍基地がなくなり安全保障の課題も解決される状態である。これができれば確かに理想的である。しかし、M君はそれは実現不可能だと考える。「現実」とは、安全保障上の課題をクリアしつつ、段階的に基地機能を縮小していくことだそうだ。反対派には具体的なプランがない、あるいは実現がほぼ不可能であるのに対し、容認派には具体的なプランがある。「客観的な判断」とはおそらくそういうことだろう。M君曰く、両者をフラットに価値中立的に見た時に、容認派の方が筋が通っていると判断したそうだ。

この判断の結果についての反論はない。しかしその前提となる部分である判断の根拠については一考の余地があるように思える。M君が容認派に共感したのは、果たして容認派が理性的で、反対派が理性的でなかったからなのか。おそらくそれは違う。M君の価値観が、反対派のそれより容認派のそれに近かったのだ。

具体的に説明する。容認派と反対派の考え方は、結局は価値観の優先順位の差異に過ぎない。容認派の多くは政府や自衛隊の関係者である。彼らは職務として、国益を最優先に考える必要がある。国全体の利益を最大化する政策が彼らにとって良い政策なのだ。つまり、簡単に図式化すれば日本(国益)>沖縄(生活)なのだ。

一方、反対派は地元の活動家の方々が多い。彼らは実際に基地によって生活の一部が妨害された人々や、その支持者である。彼らの要求することは、自分や自分の大切な人の平穏な生活を守ることであり、様々なリスクの原因たる米軍基地はその生活を脅かしうるものだ。同様に図式化すれば沖縄(生活)>日本(国益)なのだ。

論理は時に積み木に例えられる。正しい論理構成とは、正しく積み木を積む作業と近しいものがある。それに乗っかって誤解を恐れずに例えれば、価値観とは積み木を積む土台となるものだ。価値観の対立は論理では対応できない。論理的推論によって導かれる最善の価値観など存在しない。なぜなら、価値観は論理に先立つものだからだ。例えば、イヌとネコどちらが好きかは価値観である。ネコが好きな人にイヌが優れている理由を論理的に述べれば、世界のネコ好きはイヌ好きに寝返るだろうか。もしかしたら何名かは意見を変えるかもしれない。しかし大多数はそのままだろう。なぜなら、イヌとネコどちらが優れているかなんて論理的には判断できないことだからである。イヌとネコという例えが嫌いなら、自由と平等でも保守とリベラルでも好きな言葉を代入していただきたい。

M君の話に戻ろう。彼は首都圏出身であり、外交官志望であることもあってか、国益を優先すべき、という価値観を強固に内面化していた。そのような視座に立てば、当然同じ優先順位を持つ人々の意見は理性的に、異なる優先順位を持つ人々の意見は非理性的に聞こえる。それ自体は誰しも起こりうることなので仕方ない。問題は、そのことを彼が全く自覚していなかったところにある。彼は自分が論理的な存在であり、それ故に価値中立的な存在であると思っていた。その結果、価値観の相違から来る違和感を、全て相手の「非論理性」「非理性性」として解釈してしまっていたのだ。

 

議論する相手の一番の理解者たれ

異なる意見に違和感を覚えるのは当然である。問題は、その原因が価値観の相違(M君の場合は日本と沖縄の優先順位の違い)であるということに気づき、相手がなぜそのような価値観を抱くに至ったのかをお互いに問い合うことである。それは、互いに相手を理解するために全力を尽くし、議論することのできる土俵はどこかを二人で共に探す営みである。

ここでわかるように、議論とは相手への最大限のリスペクト無くしては成立しない。なぜなら、互いの価値観を理解しようとするには相互に信頼がなければならないからである。自分たちの意見の相違の源泉を探り当てることは、どちらか一方だけでできることではない。ましてや、価値観の相違に無自覚で、相手の意見を「理性的でない」と切って捨てるような人間を前にして、果たして相手はお互いの価値観をぶつけ合おうと思えるだろうか。沖縄まで行った彼の行動力は賞賛するが、論理の価値中立性に対する無批判な信頼と、その認識に対する無自覚さ故に、彼はたくさんの機会を損失したことだろう。

さらに、沖縄のケースで言えば、沖縄>日本と考える人が沖縄市民なのに対して日本>沖縄と考える人は行政や軍人である。すなわち、ここで既に権力的な非対称がある。後者は直接的決定権を握っているが、前者は選挙によって間接的な意思表示をすることができるのみである。その両者が対話する際には、権力側にある人間は、この非対称性についてはっきりと意識した上で語らねばならない。例えば、反対派が理想論ばかり語るのは、彼らにできることは政府方針の変更を求めることであり、現実的な側面ばかり重視すれば政府側に取り込まれてしまうと考えるからではないか。そうすると彼らは自覚的に理想論を強調しているのかもしれない。これはあくまでも一例だが、このような想像力なくして、立場の異なる相手との対話は難しいだろう。マクドナルドでの対話を経て、M君もこれらについて自覚的に考えてくれるようになると思う。彼のこれからの活躍に期待したい。

最後に、高校時代に出場したディベートの世界大会で僕が最も印象に残っている教えを紹介したい。「相手の議論の揚げ足を取るのではなく、相手の議論の一番の理解者となれ。もし相手の立論が至らなければ、補完して完璧にしろ。その上で、それを超える主張ができれば、誰がどう見ても君の勝ちだ。それが最良のディベーターというものだ。」

解説は不要だろう。最良のディベーターになれたかどうかはわからないが、最良の対話者たろうとする気持ちは常に持ち続けていたい。