思記 / @southwisteria の日記

流れに逆らう舟のように

提案よりも批判を ~G1カレッジ批判~

G1カレッジで覚えた違和感

昨日、G1カレッジのリユニオンに参加した。G1カレッジとは簡単に言えばG1サミットの学生版である。ではG1サミットとは何か。ホームページから引用する。

混迷する世界にあって、次世代を担うリーダー層が集い、学び、議論し、
日本再生のヴィジョンを描くための場にしたいと考え、「G1サミット」は生まれました。(中略) G1サミットでは、政治・経済・ビジネス・科学技術・文化など、様々な分野の第一線で活躍する同世代の仲間が、互いに学び、立場を超えて議論し、未知の領域であった知恵を自らの糧としながら、良き仲間を得て、リーダーとして自身も周囲も成長していくことを趣旨としています。 

その上で、G1カレッジのコンセプトをホームページから引用する。

 (前略) 次の時代を担っていくのは、紛れもなく、10代後半や20代前半の皆さんです。G1カレッジという選ばれた次世代リーダー達のネットワークの中で、日本や世界で既に活躍しているリーダーたちとの連携を加速し、継続的にイノベーションが生まれるコミュニティとなることを願っています。

大体のイメージはこれで掴むことができるだろうか。長々と引用してきたが、とある先輩の言葉を借りれば、要するにこういうことである。

たぶん、日本で一番「意識が高い」イベントでしょう。それもよくある「意識高い系」じゃなくて、ガチガチのガチのやつ。

ありがたいことに、G1カレッジが始まった2014年から僕はこのイベントに参加させていただいている。しかし、失礼を承知で申し上げれば、僕はG1カレッジを心から楽しんだことは一度もない。正直に言えば、いつも正体不明の違和感を抱えながら、何となく参加していた。今回リユニオンに参加して、 その「正体不明の違和感」をある程度特定することができたのでここに記したい。結論から言えば、それは「内輪のノリで物事を進めていこうとするために相互批判的なプロセスが欠如した雰囲気」であり、その背景には「「批判に対する誤解による批判の軽視」がある。G1は大きな指針の段階から既に批判を軽んじており、その悪弊が具体的な部分まで現れている。以下、順を追って説明したい。

 

G1の行動指針から見えるもの

G1サミット・G1カレッジは行動指針として以下の3つを挙げている。

  1. 批判よりも提案を
  2. 思想から行動へ
  3. リーダーとしての自覚を醸成する

ここで注目すべきは、行動指針1と2の差異である。2の構成要素である「思想」と「行動」の両者の関係性は並列である。まず「思想」があり、それが「行動」につながるという構造となっている。一方、1の構成要素の「批判」と「提案」には、明確な上下関係がある。後者がより重要であり、前者は重要な要件として見られていない。

行動指針1単体であれば、「批判も重要だがそれを提案に繋げるのも重要だ」と好意的に解釈することも不可能ではないが、2の存在がそれを否定する。批判の重要性を少しでも感じているのであれば、2と同様に「批判から提案へ」と表現すれば良い。1の行動指針の中には、「批判」という行為の価値を一段階下げようという意思が感じられる。

ではなぜ「批判」はこのように軽んじられているのか。その背景には、「批判」という言葉の解釈に関する認識の相違があるように思われる。

 

批判とは何か

「批判」という言葉を巡っては、先日とあるツイートが炎上したことが記憶に新しい。

森友学園加計学園のスキャンダルや共謀罪強行採決などの経緯もあり、この「批判なき選挙、批判なき政治」 は「権力に対する批判を許容しない」という主張として解釈されて大きな反発を呼んだ。それに対し、ハフィントンポスト編集長の竹下隆一郎氏は、このことを取り上げた記事内で、以下のように分析する。

今の日本は、どこか空気を壊さない「ノリ」が求められている。また、人口が減り続けて、明るい未来が描けない中、日本の政治はサクサクと物事を決めないといけない。そんな状況の中、今井氏にとって批判という言葉は「すっごい悪いことって意味」で使われているのかもしれない。

 以下は先述の記事で引用されていたブログの一節である。(かっこ内は竹下氏)

「(今の若者や子供達にとって)『批判』は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。」

すなわち、今井氏の用いていた「批判」の定義は「難癖・言いがかりをつけて政治の邪魔をすること」という極めてネガティヴなものである。それ故に、政治家であるにも関わらず「批判なき政治」と簡単に発言できてしまったのだ。

では、「批判」とは本当にそのような意味のものなのだろうか。明鏡国語辞典第二版によると、「批判」という言葉は以下のように定義されている。

物事に検討を加え、その正否や価値などを評価・判定すること。特に、物事の誤りや欠点を指摘し、否定的に評価・判定すること。

これによると、「批判」という言葉それ自体に難癖や言いがかりのニュアンスはない。物事を妨害することではなく、その正否や価値を評価することを差す言葉である。物事を検討する上でなくてはならないプロセスであり、ここでの判定を元に、改善案や打開策が提案されるものだ。巷でクリティカル・シンキング(批判的思考)という横文字が流行して久しいが、この思考の必要性が喧伝され続けているのも、「批判」が物事を正しく評価し問題点を適切に洗い出すために必要だからこそだ。グロービス「クリティカル・シンキング講座」なるものを開講している。ここでの「クリティカル(=批判的)」は、おそらく明鏡国語辞典の定義に近しいものだろう。そうでなければ講座など開く意味がない。

しかしG1の行動指針に関しては、残念ながら、先述の今井氏の定義に乗っ取っていると言わざるを得ない。「批判」は「難癖」であり、物事を前に進めない。だから「批判」ではなく「提案」を要求する。このような意味であれば、行動指針1はすんなり理解できる。もし明鏡国語辞典的な定義に従っていれば、行動指針1は「批判から提案へ」となるはずだ。なぜなら、繰り返しになるが、批判とは物事の検討と価値の評価であり、提案にとっての必要不可欠な構成要素だからだ。

G1は、「批判」の定義として「価値評価と改善のためのプロセス」ではなく「難癖・言いがかり」をどちらかと言えば色濃く用いている。その結果、「相互批判による価値評価と改善のためのプロセス」がG1カレッジにおいて欠落し、G1発のアクションに悪い影響を及ぼしている。次項でそれについて説明する。

 

「G1カレッジ発」の問題点

 G1カレッジ発のアクションとして、OPEN POLITICSが挙げられる。OPEN POLITICSとは、「すべての世代に被選挙権を。OPEN POLITICS―“政治”を全世代に開放する。今、政治を変えるとき。」をステートメントとして掲げる学生主体の政治運動である。G1カレッジ2015の政治分科会から生まれたアクションであり、G1関係者の政治家などを巻き込んで、被選挙権取得年齢を18歳に引き下げることを目標に活動している。

予め断っておくが、僕はこの活動に多大な敬意を表したいと思っている。また、これに関わる友人も、皆尊敬できる人ばかりである。だからこそ、この運動についての意見を忌憚なく記したいと思う。OPEN POLITICSの全てを知っているわけではないので、以下の批判は一面的になってしまうかもしれない。不備があればぜひ、この記事を批判してほしい。

OPEN POLITICSの掲げるメッセージはとてもビジョナリーである。確かに、被選挙権取得年齢が18歳になったら、なんとなく、若者に対して開かれた政治になるような気がする。しかし、逆に言えば、ビジョナリーでしかない。OPEN POLITICSは活動目的を「被選挙権年齢の引き下げ、多様な世代の声が反映される政治の実現。」と定義している。おそらく前者によって後者が実現されるということだろう。すなわち最終目的は「多様な世代の声が反映される政治の実現」である。(もしそうでなければ被選挙権年齢引き下げそれ自体が目的化しているということであり、この運動の正当性が担保できない。)しかし、このウェブサイトには、なぜ前者によって後者が実現されるのかの具体的な説明がない。多様な世代の声が反映される政治は、なぜ選挙権年齢の引き下げだけでは実現しないのだろうか。多様な世代の声が反映される政治という目的に対して、なぜ被選挙権年齢の引き下げが効果的なアプローチと言えるのか。そもそも、なぜ「同世代の政治家」は自分と「同じ分の責任を背負って」いると言えるのか。本来運動に際して最も強調すべきこのような部分が、このウェブサイトではふわふわした言葉によってなんとなく示されているだけで、「被選挙権年齢引き下げが多様な世代の声を反映することにどう繋がるのか?」という問いに対する具体的な回答がない。

別に完璧な論理武装をしろと言いたいわけではない。しかし、アクションを起こすのなら、そのアクションをどう位置づけるのかのロジックは明確に通すべきであり、それをしっかり明示するべきだと僕は思う。被選挙権年齢が実現すればおそらく多くの人に影響が及ぶが、その全ての人に対する説明責任をこのウェブサイトは果たせるだろうか。正直言って、到底そうは思えない。

このOPEN POLITICSにおける「ビジョナリーなだけ」問題こそが、先述の「批判より提案を」の悪影響だと僕は解釈している。彼らの主張には、批判(より正確に言えば批判的思考)がない。少なくとも、このウェブサイトからは「被選挙権年齢を引き下げれば、なんか若い世代の声も拾えそうだよね」程度のメッセージしか見えてこない。被選挙権年齢引き下げというイシューは、「本当にそうか?」「本当にそれだけか?」という思考に一体どれだけ晒されたのだろう、と疑ってしまう。率直に言って、ナイーヴすぎる。もちろんこの新たな取り組み自体の価値を否定する訳ではないが、何か新たな枠組みを提示することを優先するあまり、そしてその枠組みが無批判に支持されて膨れ上がってきたために、内部での相互批判と検証のプロセスが十分でないまま世の中に出てしまった印象を受ける。新たな提案をするのは素晴らしいことだが、提案は常に批判によって研ぎ澄まされていくものである。その意味で、この提案は、まだまだ研ぎ澄ます余地が大いにあるように僕には思える。OPEN POLITICSは、G1の「提案」に対して「批判」しないというスタンスが、提案を未熟なまま大きくしてしまった好例だ。

今回は例としてOPEN POLITICSを引き合いに出したが、別にこれだけが悪いわけではない。G1カレッジでは全体として、何かを変えることに意識を向けすぎており、本来生じるべき批判を学生(と社会人)の熱狂的なノリによって覆い隠している印象を受ける。OPEN POLITICSはその象徴として、僕の目には映っている。

 

提案よりも批判を

以上、G1の行動指針における「批判」の軽視、その背景にある「批判」についての誤解、そしてそれが具体的な悪影響を及ぼした例としてのOPEN POLITICSについてそれぞれ語った。最後に、批判についての持論を少し語る。

僕は先日、基地問題を切り口に、論理と価値観の関係性について書いた。ぜひ一読していただきたいのだが、簡単に要約すれば「議論する上でお互いの意見の相違の原因を理解するためには、価値観の相違まで遡って議論しなければならないが、そのためには相互にリスペクトを持ち、お互いがお互いの最高の理解者になろうとする姿勢が重要である」という趣旨である。批判についても、僕は同様に考える。批判する人間は、相手の最高の理解者にならなければならない。批判とは、相手をリスペクトし、相手を理解した上で、相手に欠けているものを指摘する営みだ。さもなくば、批判は表層的な「難癖」になり、「物事に検討を加え、その正否や価値などを評価・判定すること」が不可能になる。「批判」を「難癖」から救済する敬意を忘れてはならない。

これがよくわかるのがジャーナリズムだと僕は考えている。ジャーナリズムとは、社会によって虐げられた人、不利益を被っている人に光をあて、問題として提示し、社会の関心を問題に向ける営みだ。すなわち、ジャーナリズムとは「批判によって社会を動揺させ続けること」だと僕は思っている。しかし、動揺させるために嘘をついてはいけないし、誰かを傷つけてもいけない。良いジャーナリストは、社会を誰よりも深く理解し、当事者に対して敬意を持って接する。その上で、社会の矛盾を指摘し、より良い社会に向けての動きを作り出すのだ。

ここで、重要なことがわかる。それは、批判は必ずしも提案を伴わなくても良いということだ。貧困問題を取り上げたジャーナリストに対して「じゃあお前は貧困問題を解決できるのか?具体的な提案ができなければ黙ってろ!」というのは「難癖」である。社会に対する批判によって、新たに可視化される問題があり、それは直接的ではないかもしれないが、何かしらその問題解決の前進に寄与している。提案できなければ批判できない世界では、批判が萎縮し、結果として問題提起自体が消滅してしまうという最悪な状況を生んでしまう。世界が変革される時には、まず批判があり、それに伴って提案がある。これを決して忘れてはならない。

だからこそ敢えて言おう。提案よりも批判を。その場のノリと熱狂で生まれる空疎な提案より、緊張感ある対話と絶えざる思考による批判を。物事の問題を正しく見極め、社会を動揺させる批判を。意義ある提案は、意義ある批判からしか生まれない。だからこそ、創造と変革の志士にまず求められるのは、この批判的精神ではないだろうか。提案よりも批判を、批判からの提案を、今後のG1カレッジに期待したい。

ここまで読んでいただいた読者の方々はお分かりかと思うが、これもまた一つの「批判」である。甘い部分や認識不足も多々あるかと思われるが、それに気づいた場合はぜひこの記事を「批判」していただきたい。その「批判」の雰囲気こそがこの記事の望むものである。直接的か間接的かは問わず、この記事によってG1カレッジのコンセプトや運営方法についての活発な議論が巻き起こり、結果としてG1カレッジのこれからに寄与することになれば、「批判」の重要性を説いた筆者として望外の喜びである。