思記

よしなしごとをそこはかとなく

「提案主義」と「批判主義」

はじめに

前回の記事で、G1と僕の「前提」の違いを洗い出す作業を試みることを宣言した。この作業を始める上で、まず、tvsjohnさんから頂いた応答に着目したい。一部を抜粋する。なお、ここでいう「価値体系」は、前回の記事で取り上げた「前提」とほぼ置き換え可能だと解釈している(*1)。

G1カレッジ内部の価値体系からは価値のない批判とされているものを、southwisteriaは個人的視点から価値ある批判だと論じ、G1カレッジがそれを価値がないとして排斥しているのはおかしいと言っているのに他ならない。Southwisteriaの投稿に欠けているのは批判の価値の相対性への理解であり、これがゆえに論旨が一方的なものになっている。 

G1と僕は異なる価値体系を持っている。それ故に、批判の価値についても認識のズレが生じる。しかし本記事は、価値体系の違いとその背景を分析することなく、自分の価値体系を押し付けるような一方的な主張をしている。僕はtvsjohnさんの指摘をこのように理解している。そしてこれは正しい指摘だと考えており、一面的な主張になってしまったことを反省している。

この反省を踏まえ、今回の記事で試みるのは前々回の記事の再主張ではなく、両者の主張の分析である。具体的には、以下の三点について述べたい。

  • G1の前提とその背景
  • G1と僕の前提の相違
  • 相違を踏まえた上での方針

(*1) より正確に言えば、「価値体系」とは「前提」の一部である。しかしここで特に問題になるのは「前提」のうちでも特に「価値体系」の部分であるため、ここでは両者は置換可能だと考えた。

 

「提案主義」としてのG1

G1の社会認識

G1はどのような価値体系を持っているのか。言い換えれば、G1は何が大事だという前提を持っているのだろうか。それを考えるために、G1カレッジ開催の目的(コンセプト)を改めて引用する。

今、日本社会は、経済や金融・産業・行政・教育など、様々な面で構造改革に迫られています。 改革期だからこそ、あらゆる分野で新しいリーダーが求められ、一人ひとりが自分の意思のもとに主体性を持って社会に関わり、イノベーションの担い手となっていくことが期待されます。(中略) 次の10年・20年後の日本のビジョンを描き議論することで、そこで生まれる提言・繋がり・熱量が世の中を変えていく。そんな大きな原動力を創りたいという想いで、G1カレッジは立ち上がりました。 (後略)

まとめると、以下のようになる。

  • 社会は構造改革に迫られている。
  • そのため一人一人がイノベーションの担い手になることが期待される。
  • 世の中を変えていく原動力を作るためにG1がある。

ここで前提とされているのは、 「社会は変革されなければならない」という価値観である。これは昨年度のG1カレッジのテーマ"What will you do tomorrow?"にも端的に現れているように思うし、また、G1カレッジ元運営の徐さんのnoteでも垣間見える。

そのように理解した上で,あえて反論すると,やはりアクションベースで語らないと社会は前進しないので,どう考えても「批判よりも提案を」だと主張します(集合関係を上述のように整理する限り)。

「社会の前進」というのは先述の「社会は変革されなければならない」という価値観と類似しているように思える。社会には問題があり、それらは変革によって解決されなければならない。社会の問題は喫緊に解決すべきなので、提案を重ねて変革を進めていかなければならない。変革のために、我々はまず具体的な行動を起こさねばならない。これがG1が共通認識として持っている価値観である。以下、G1のこの価値観を、「提案主義」と呼ぶ。

「提案主義」の背景にあるもの

では、提案主義の背景にあるのはなんだろうか。つまり、彼らはなぜ「提案」や「変革」を強く志向するのだろうか。ここについては様々な説明が可能だろう。友人のTさんとのやりとりの中で、Tさんが面白い考えを示してくれた。以下、Tさんの主張の一部を引用する。

制度は機能不全に陥っているのに既存の「力」では対処できない。議会における民主的手続きは時間がかかるわりには何もなさない。ならば政治とは別の領域、ある意味では「社会」の側が変革の主体にならなければならない。その担い手は選別された、根から外れている「社会エリート」だということになる。制度の機能不全に立ちすくむ国家に対してこの社会の側がアプローチを仕掛けないといけない。
国家はなぜ立ちすくむか。それは政治のあり方がおかしいからである。そして制度疲労に対してはすぐさまアプローチしなければならない。そこで邪魔になるのは批判などである。批判を受けて物事が進まないのはそれは既存の政治のあり方そのものではないか。物事を進めるためにはそれを一旦停止する批判ではなく提案をあるいは対案を。変革するのは既定路線であとは提案と対案だけ。その路線がそもそも必要かどうかは議論しません。なぜならとにかく変わらないといけないからです。それでとりあえずこの道で変わることに決めたのです。以上。あとはこの方向をどういう風にいいものにしていくか。提案、対案ならお受けします。(後略)

 Tさんは、G1が行動による変革を志向する姿勢の背景を制度の機能不全に見出す。問題に対してすぐさまアプローチしなければならないのにも関わらず、現状の制度(批判的な検討をする機関)は機能していない。それ故既存の制度を離れた外部的なアプローチが求められているのであり、その原動力たるのがG1なのだ、という解釈である。物事を一旦停止する行為である「批判」が、彼らの価値観に不適合なのも、こう考えれば当たり前である。彼らにとっては、行動を阻害する「批判」は「難癖」でしかなく、集団の目的を阻む邪魔者である。

これはあくまでも一つの仮説でしかない。しかしこれはある一面を的確に捉えているように思う。G1参加者は何かしら社会に対して問題意識があり、実際に行動によって社会変革をなしてきた人が多い。それも議会や制度などではなく、個人ベースのアクションによる変革が多いように思う。それ故彼らは、個人の行動によって社会を変えることの正しさや可能性を前提にしている。そして先述のようにそのプロセスと「批判」は相性が良くない。結果として、彼らは組織としての目的追求過程における合理的取捨選択によって、「批判」を放棄する傾向を持つようになる。これが、「G1はなぜ『批判より提案を』なのか」という問いに対する僕の暫定的な理解である。 

 

「批判主義」としてのブログ記事

僕の社会認識

では、一方僕はどう考えているか。僕は「社会は変革されなければならない」という前提を必ずしも共有していない。確かに、社会にはたくさんの問題があり、それらは提案による変革によって解決していくべきものなのかもしれない。しかし、変革のもたらすものが常に「改善」とは限らない。社会において何かを変革した時、その影響は広範囲に及ぶ。それはもちろん悪影響を含めて、である。そして多くの場合、その変革は取り返しがつかない。その変革がうまくいかなければ取り消せばいい、というほど、変革は単純なものではないと僕は考えている。変革の対象が大きくなればなるほど、複雑さは増加し、その変革によって影響を受ける人々が増えていく。もちろん社会に変革が必要ないというつもりは毛頭ない。しかし、変革は社会の多くの人々に影響するのだから、変革者にはその影響について、しっかりと考える必要がある。

ここで重要になるのが批判的な思考である。変革のためのを実行に移す前に、一歩立ち止まって考え、その提案についてあらゆることを可能な限り検討する(例えば「この提案によって誰が影響を被るのか」「社会はどう変わるのか」「それによるネガティブな影響は何か」「意図したことが本当に起こるのか」など)。別に僕は保守主義者ではないし、今の社会に変革されるべきところは溢れていると思う。しかし、だからと言って、どんどん変革を進めよう、そのためにどんどん提案しよう、という考え方にはならない。社会のためにならない提案は適切に破棄されるべきだし、我々はあらゆる変革に対し、まずは批判的思考と共に、慎重に検討すべきだと僕は考えている。今回の記事では、便宜的にこれを「批判主義」と呼びたい。「提案主義」は、提案の妥当性や正当性を吟味する段階を意図的に欠落させてしまうことがある。それは社会を変革する人間として無責任である。それ故に、僕は「批判主義」的な社会認識が、より良い社会を導けると考えている。

なぜ「批判主義」が必要なのか

批判主義はなぜ社会にとって重要なのだろうか。端的に言えば、批判主義は社会をより正しく認識することができるツールを提供するからである。社会について我々が考える時、我々は公平に見えて、極めて偏った考えを持ちがちである。なぜなら、我々の志向はこれまでの人生経験によって形成されており、その人生経験は一人一人全く異なるからである。だから、自らの思い込みだけで社会について考えると、とんでもない勘違いをしてしまう恐れがある。それを救済するのが批判主義である。

批判主義者はまず疑う。自分の認識は正しいのか。間違っているとすればどこか。問題意識は適切か。それに対処する方法としてこれは本当にベストか。自分の意見が偏っていることを認識した上で、対象を徹底的に疑う。その上で、暫定的な答えを仮置きする。これが批判主義者のアプローチだ。

社会に生きる人々は、当然一人一人全く異なるバックグラウンドを持つ。その全員にとってポジティヴな結果を生み出す変革などほとんどない。しかし我々は身の回りで傷つく人がいなければ、時としてその変革は万民にとってのベストだと思いがちである。しかしその変革によって、深刻な悪影響がいつか誰かに生まれるかもしれない。もちろんそれを恐れて変革をしないのは間違っているが、その影響を正しく把握することにベストを尽くさないのもまた間違っている。社会を変革する際には社会を正しく眼差す必要があり、そのために、批判主義的な物の見方が必要になるのだ。

「批判主義」を提示した理由

ここでいくら強調してもしすぎることがないのは、「提案主義」と「批判主義」は価値観の相違であり、どちらかが常に正しいというわけではないということである。「批判主義」によって物事が遅々として進まず、結果として変革の波に乗り遅れるということもあるだろう(昨今の日本社会はこのようなことが多いような印象を受けるのも事実である)。また、批判があまりに微細な部分ばかりを攻撃するため、枝葉末節にこだわってしまい、大局を見逃すということもあるだろう。批判にこだわるあまり、適切な批判の取捨選択がなされることなく、「難癖」的な批判に終始してしまうこともありうる。「批判主義」を名乗るものとして、それが引き起こしてきた弊害を無視するわけにはいかない。(実際、僕への反論のうちネガティヴなもののいくつかは、これらの「批判主義」が生む弊害への警戒から来ていた。)

僕が意図しているのは、提案主義者を批判主義者に「転向」させることではない。G1の雰囲気を「提案主義」という言葉によって可視化し、その対概念としての「批判主義」を提示することで、G1という集団の見せかけの中立性を覆し、改めてG1は組織として何を目指すかを考える契機を生み出すことが、僕の試みであった。「批判主義」が「難癖」に堕落してしまうことがあるのと同じように、「提案主義」もまた「思考停止」に陥る可能性がある。それについては詳しくは前々回の記事で言及したが、G1が社会変革を志す以上、「思考停止」的な提案主義は社会に大きな悪影響を与えうる。G1参加者の社会に対する熱意が結果として社会にマイナスの影響を与えることほど滑稽で、また悲しいことはない。しかし現状の構造では、それは起こりうる未来として僕には想像できた。それ故に今回、僕はこのような形でG1に意見した次第である。

 

両者が存在することの意義 

ここまで、G1と僕の対立を「提案主義」と「批判主義」という分類によって整理した。繰り返すが、G1は、それを彼らがどれくらい自覚しているかはさておき、明確に「提案主義」的な集団である(それは僕のブログに対する応答によってさらに明らかになった)。一方、本当に社会を変革したいのであれば「批判主義」的な思考も重要である。しかし、「提案主義」的な発想を持つ人ばかりが集まりすぎている(あるいは支配的な発言力を持っている)ために、G1には「批判」というものを軽んじる風潮がある。それはG1の目的である「社会変革」にとって明らかなマイナスである。その現状を自覚した上で「批判」あるいは「批判主義者」それ自体にもっと価値を見出す場であってほしい。用いる語彙や論理関係に多少の変動はあったが、これが僕が今回の件を通じて一貫して伝えたかったことである。

では、我々はいかにして共存していくべきなのか。個人の信条として、僕は批判の方が提案より重要だと考えている。しかしそれは、提案は批判に優先すると発想する人々を排除しない。むしろ逆である。自分が批判主義者だからこそ、提案主義者は僕にとって一番の「批判家」となる。だから、批判主義の理念をよりよく実現するためにも、換言すれば、批判的思考を自らに対しても向けるためにも、提案主義者という異質な存在は批判主義者こそ大切にすべきだと考えている。批判主義者一般に言えるかどうかはわからないが、本当の意味で批判を重要視しているのであれば、自らを批判する契機になる存在は何より重要だ。だから僕は、是非とも提案主義者と共に思考し行動したいと考えている。

しかし、逆に、提案主義者にとっての批判主義者はどうだろうか。批判主義者は提案に水を差す。それが社会にとって正しい姿だと信じているためだ。しかし提案主義者から見れば、一見批判主義者は「提案の邪魔ばかりするペダンティックルサンチマン野郎」にしか映らない。結果として「じゃあ出ていけ」という結論も考えられうる(実際に僕は複数のチャンネルでそのようなことを言われた)。結果、提案主義者は提案主義者だけで集まりやすくなる傾向がある。その方が提案がつつがなくなされるからだ。しかし、そのような人ばかり集まる集団が、本当の意味で「社会変革」を掲げることはできるだろうか。

僕は批判主義と提案主義は両輪だと考えている。批判によって問題意識がクリアになり、提案によってそれを解決する。提案によって得られた結果が、新たな批判的思考を生むこともある。それらが両輪として機能してこそ、社会変革は正しくなされると僕は信じている。だからこそ提案主義者は、批判主義者を排除すべきではない。なぜなら批判の目的は提案の妨害ではなくより良い社会の実現だからである。G1のように、提案主義者の声が大きくなる空間こそ、提案主義者は「批判」の意味をしっかりと理解する必要があると感じる。もちろん、批判主義者もまた、多くの提案が世の中を変えてきた事実をしっかりと理解する必要がある。その上で我々はよきパートナーとして、社会の問題に取り組むべきだ。そのような健全な空間としてのG1を、いちOBとして切に期待するものである。

 

追記

G1をテーマに書いてきたが、これはG1だけに止まるテーマではない。

  • 楽観主義から急進派になりうる提案主義
  • 悲観主義から懐疑派になりうる批判主義

この両者をどのように位置づけるかというのは、先述のTさんも指摘するように、極めて興味深いテーマである。中庸か、止揚か、脱構築か。僕はまだ、その答えを持っていない。