思記

よしなしごとをそこはかとなく

栗城史多さんの評価はなぜ二分するのか

二分する栗城さんの評価

登山家の栗城史多さんが亡くなった。数年前に駒場で少人数の講演会をしてくださった時のことを思い出す。人懐っこい笑顔が印象的で、ああこの人がたくさんの仲間を集められる理由もわかるな、と思える素敵な方だった。それだけに今回の訃報は本当に残念であり、悲しかった。栗城さんのご冥福を、心よりお祈りしたい。

さて、栗城さんの死後、彼の挑戦についての評価は肯定派と否定派で真っ二つに分かれた。一方では栗城さんを絶賛し、一方では栗城さんに懐疑的な眼差しを向けている。前者は起業家や経営者などが多く、後者は登山に関わる人が多い印象である。本稿では両者の立場の整理を通じて、相互理解を促進することを試みたい。

結論を先に言えば、以下のようになる。

  1. 両者は「挑戦は重要である。」という点については同意見であるが、「挑戦において最も重要なものは何か?」という問いに対する答えが異なっている。
  2. 「それはパッションだ」と考える人は肯定派、「それはリスペクトだ」と考える人は否定派の立場をとっている。
  3. 挑戦において最も重要なものは、どのようなフィールドにおける挑戦であるかに大きく依存する。
  4. 今回の件に関して言えば、登山の専門性・危険性の高さ故に、リスペクト派の主張がより説得的だと僕は考える。

肯定派と否定派が共有する前提 

肯定派と否定派は一見正反対のように見えるが、実は大きな前提を共有している。それは「挑戦は重要である」という考え方である。肯定派はもちろん、この考え方故に、挑戦に生きる栗城さんを応援しているわけだし、否定派が栗城さんに懐疑的なのも、彼らが重要だと考えている挑戦に対する栗城さんの態度に不信感を抱いているからである。

栗城さんの一部の肯定派は、否定派を批判する際に「挑戦の価値を軽んじている」という旨の主張をすることがあるが、これは大きな誤解である。否定派は登山家など、栗城さんと同じ挑戦に携わっている人が多い。挑戦に生きている彼らは当然、挑戦することの意義を重要視していると考えた方が自然だろう。

肯定派と否定派の分かれ目

問題はここからだ。挑戦を重要視している両者の意見が分かれるのは、「挑戦において最も重要なものは何か?」という問いに対する答えである。「それはパッションだ」と考える人は肯定派、「それはリスペクトだ」と考える人は否定派の立場をとっている。

肯定派は、周囲から「無謀だ」と言われようと挑戦を貫いた栗城さんのパッションを高く評価している。その背後にあるのは、熱意を持つことこそが挑戦において何より大切だ、という考え方である。肯定派の起業家や経営者は、周囲から無謀だと言われようともパッションを持って努力する経験があった人たちであり、その姿を栗城さんと重ねているのだろう。つまり「肯定派=パッション派」と言える。

一方、否定派は、栗城さんの挑戦を「無謀だ」としている。より詳しく言えば、「今の方法ではその挑戦は間違いなく失敗に終わることは先人を見ても明らかなはずなのに、なぜ挑戦し続けるのかがわからない」と考えている。その背後にあるのは、挑戦するに当たってまずすべきは、挑戦する対象である山、あるいはその山に挑戦してきた先人に敬意を払い、入念に準備することであるという考え方である。否定派の実際に登山経験がある人々は、山がどれほど恐ろしい場所かを身に染みて理解しており、それ故に、リスペクトを欠いた挑戦を繰り返す栗城さんが許せないのだろう。つまり「否定派=リスペクト派」と言えよう。

挑戦の両輪としてのパッションとリスペクト

筆者はここで、パッション派とリスペクト派のどちらが優れているかについての一般論を述べたいわけではない。以下のふたつの理由から、それには大きな意味がないと考えるからである。

一点目に、当然のことだが、挑戦にはパッションとリスペクト両方が大事だからである。起業家や経営者だって、先人の事例を敬意を持って学ぶことで正しい判断に近づくことができる。登山家だって、最後に挑戦に足を向けるのは、「あの山に登ってやる」という熱意だろう。両者は車の両輪である。

二点目に、一点目を踏まえた上で、パッションとリスペクトのどちらがより重要かはその時の固有の文脈に依存するからである。具体例をあげるまでもなく、一般論として、優劣をつけることは不可能なことは読者にもお分りいただけるだろう。

その上で、僕はどちらを支持するか

その上で、今回の文脈で考えると、リスペクト派の主張の方が筋が通っているように思える。というのも、登山というのは極めて専門性・危険性の高い挑戦だからである。

筆者の拙い登山経験から考えても、登山は命の危険と常に隣り合わせであり、それを回避するために極めて広範な知識と経験が必要となる。エベレスト登山などになれば尚更である。挑戦の専門性が高ければ高いほど、挑戦はパッション一辺倒では成立しない。その挑戦をどのように成り立たせるかをしっかりと戦略立てて考え、場合によっては挑戦自体を諦めるという勇気ある判断も必要になる。そして、それを可能とするのはもちろん、先人や山への敬意である。

繰り返すが、僕は栗城さんを素敵な人だと思う。しかし、栗城さんの挑戦の巨大さに比べて、その挑戦に対するリスペクトは必ずしも大きくなかったのもまた事実である。この点について、栗城さんは批判されて然るべきだと思うし、その批判を展開するリスペクト派の人たちに「挑戦に水を差す頭の固いやつら」というレッテルを張ろうとする一部のパッション派のあり方は不誠実であるように僕には見える。もちろん、僕は目にしていないが、パッション派へのレッテル貼りも同様に不誠実な行為であることは言うまでもない。

栗城さんの死を悼んで

 そしてもちろん、栗城さんへの評価と、栗城さんへの哀悼の意は分けて考えて頂きたい。 たとえ栗城さんの挑戦がリスペクトを欠いたものであったとしても、その挑戦が多くの人に勇気を与えたのは紛れも無い事実であり、栗城さんの挑戦に間違いなく意義はあった。繰り返しになるが、心から栗城さんのご冥福を祈りたいと思う。