思記

よしなしごとをそこはかとなく

ノートの取り方と他者理解

崎門とノート

先日崎門について学ぶ機会があった。崎門とは江戸時代前期の南学派の朱子学者、山崎闇斎の門下のことである。山崎闇斎の思想自体についてはここでは割愛させていただきたい。ここで紹介したいのは、崎門の特徴についてである。山崎闇斎は徹底して朱子学者であろうとした厳格な人であった。幕府の知恵袋であった同時代の林家(林羅山・鵞峰)を「不純」であるとして痛烈に批判し、原理主義的な朱子学に忠実であろうとした。

この原理主義は講義の形式に端的に現れている。崎門の講義形式は、師匠がひたすら喋り、その言葉をひたすら書き写すというものである。これだけ聞くと、大学の講義のようなものを想像するかもしれない。しかし彼らの「書き写す」は、そんな生易しいレベルではない。師匠の言葉を一言半句も違えることなく書き写すのはもちろんのこと、師匠の仕草(机を叩いたり水を飲んだり)まで描写している講義ノートまであったという。原理主義的な朱子学を志向する闇斎の思想は、講義形式にまで影響を及ぼしていたのだ。これは他の儒家にしばしばからかわれるネタになったそうである。

朱子学は基本的発想として「道は一つに定まる」と考えるが、その一つたる師匠を取り込もうとした営みなのだろうか。崎門は日本の朱子学研究において最も研究が進んでいる分野の一つであるそうだが、それは崎門の重要性もさることながら、弟子たちが残した資料の豊富さと精密さにもその理由がありそうである。

講義ノート」ではなく「授業ノート」

この話を知って、僕はとても懐かしくなった。崎門の弟子たちのノート作りは、自分の中高時代を彷彿とさせるものであったからだ。

当時の僕は講義ノート作成に「講義ノートではなく授業ノートを作る」というこだわりを持っていた。普通講義ノートといえば、先生の話したことを書き写し、後で思い出せるようにするものである。しかし、ただ単に書き写しただけでは、後から読み返すと論理関係や事実関係がよくわからないということが多々ある。このことを踏まえて、確か中学生の頃、ノートの目的を「後から授業内容を思い出すためのもの」から「同じ授業をしろと言われたらできるような資料にすること」に変更したことを覚えている。

この二つの目的は、一見似たようなものに思えるかもしれない。しかし実際にやってみると、雲泥の差があることがよくおわかりいただけると思う。授業を再現するためには、「①授業内容を一切の曖昧さなく理解すること」「②様々な質問に回答できる用意をすること」「③雑談で用いた資料や書籍についても内容を把握しておくこと」の三つが必要である。①のために先生の考え方を完全に取り込み、その後②のためにあらゆる角度から疑問を検討して場合によっては先生に質問に行く。そして③についてもメモして後ほど参照されていた資料に当たってみる。場合によっては後日内容を付け加えたりもした。

この三者は相互に連関しており、③が①のために、つまり雑談をしっかり聞くことが先生の考え方を理解するために重要であった、ということもしばしばあった。ただ単にノートをとるだけでは、②や③はもちろんのこと、①でさえも覚束無い。全神経を集中させて授業に臨まなければならない。だから僕にとっては、全ての授業が真剣勝負であった。

なぜここまでの「努力」を僕はしていたのか、自分でもよくわからない。ただいくつか言えることはある。まず、自分は入学当初、劣等生であった。そのため、周囲の人々に追いつくためには自分の全力を発揮して然るべきであるという考え方を自然に受け入れたのだろう。しかしそのために必死にノートを取る生活を始めると、成績の向上もあり、ノートを取ること自体が楽しくなってきた。一コマという短い時間をノートに閉じ込めて、ノートを広げればその時間が浮かび上がってくる。学生生活を封入するような気持ちで、こだわりを持ってノートを作っていた。

逆に言えば、ノートを作るのが楽しい授業が好きだった。このようなノート作りに適しているのは主に知識が重要な分野である。具体的には、国語・英語・日本史・世界史・地理・生物・地学などであった。もちろんそれぞれの科目にそれぞれの楽しさがあったのは間違いないが、「ノート職人」として授業を受けていたのはこれらの科目であった。(いわゆる"文系科目"ばかりで、我ながら苦笑する)

制作したノートをもとに試験前に自室で自分で自分に授業をする、というのが僕の試験対策であった。その際、似ていたかどうかはともかくとして、先生の話し方や授業中の仕草まで真似して語りかけていたように思う。自分の内部に先生を取り込むことができれば、その先生が出題する問題が解けないはずがない。ノートに書いてあることを理解するのではなく、ノートを通じて全体を理解する。そうすればたとえ授業で扱っていない問題が出たとしても、正解に辿り着ける可能性は高い。僕はそう考えていた。この徹底した同一化は、一言半句も違えなかった崎門の精神に通じるところがあるのではないだろうか。

余談だが、そして「ノート職人」を豪語しておきながら恐縮だが、僕のノートは決して美しくない。むしろ汚い部類に入るだろう。僕のゴールは、万人にとって読みやすいノートを作るのではなく、授業を再現できるような資料を作ることだった。だから書き込みも多いし、書いた本人でなければわからないものも多々ある。しかし僕は僕なりに自分を「職人」だと思っていた。さらに余談だが、「東大生のノートは必ず美しい」なんて真っ赤な嘘である。母校の友人にはノートを一切とらない奴、教科書(それも別の科目)の余白に(本人さえも)解読不可能な字で書き散らかす奴もいた。彼らの一人からは「そもそもノートに頼っている時点で脳の機能を外部で補う必要があることの証拠、でも俺はいらない」という冗談か本気かわからない発言を聞いたこともある。にわかには信じられない発言だが、彼らが軒並み優秀であるところを見ると、あながち冗談でもないのだろうなと僕は思っている。

他者に対するノートテイキング

その後大学に入ってノートについての考え方はさらに変遷していくことになるのだが、ここではそれについては割愛したい。最後に書きたいのは、ノートは僕の学び方だけでなく、他者理解の認識枠組にまで影響している、ということである。

僕は他者と話す時、特に本気で相手を理解しようとしている時、頭の中にノートを思い浮かべ、ノートを作る要領で相手を理解しようとしている。なぜか。それは、相手の意見が自分なりに体系化されていないと、自分の言葉でそれを説明することができず、結果として相手を適切に理解できなくなると僕は考えるからだ。しかし人間の話は、原則として整理されていないし、話している人間にそれを求めるのは酷である。話しながら考える、話して初めて気づくということも往往にしてあるからだ。

だから僕はノートをとる。様々な枠組の中で相手の話はどう整理すれば良いのかを考え、自分なりにまとめて、相手に提示する。うまく説明できていたら続け、できていなかったら別の説明枠組を検討する。これを繰り返すことで、自分の言葉で相手について説明することができるようになる。これが他者理解であると僕は考えている。

こう書くと、僕がなんとも頭でっかちで感情的で非体系的なものを認めない狭量な人間に思える方もいらっしゃるかもしれない。僕がそういう人間かどうかは各々が勝手に判断してくれればいいのだが、少なくとも自己認識としては、むしろそういうものを大切にする人間であり、それゆえにノートをとっていると考えている。

正直なところ、相手の話の中で整合的なノートを取れる機会の方が稀である。多くの場合、どう位置付けていいかわからない話がいくらでも出てくる。そして、経験論として、その非体系的な何かにこそ、その人の核心に迫る何かが隠れていることが多い。それらを正確にノートに取りきるのは、はっきり言って不可能である。

しかし人間の会話の全てが非体系的かと言われればそうではない。もしそうであればコミュニケーションはそもそも成り立たない。つまり、人間の会話には体系的な部分と非体系的な部分がある。そして後者にこそ、核心がある。僕がノートを取るように他者と会話するのは、前者を整理することで後者を浮き彫りにし、その内実に迫っていくためだ。非体系的・非論理的な何かを大事にするために、体系的・論理的手法が重要なのである。両者は二項対立ではないのだ。

僕はノートを取る際、どこに位置付けていいかわからないものはノートの余白にメモしてマルで囲むようにしている。他者に対するノートテイキングは、はっきり言ってマルだらけである。僕はそのマルを取捨選択するつもりはない。全てのマルをマルとしてノートに書き記す。とはいえ、マルの中にも重要度における序列がある。僕が理解したい誰かにとって、本当に重要なマルはどれか。そのマルはその人にとっての重要さゆえに、決してマルの中身を暴ききることはできないが、少なくともそのマルが重要であることがわかることは、他者理解における大きな一歩であると僕は思う。だから僕は、ノートを取るのだ。

ノートテイキングという点に限定していうのであれば、マルが全くなく整合的に理解できる人よりも、マルがたくさんある人との対話の方が僕は楽しい。そのマルについて考えることで、自分の中に新たなノートテイキングの可能性を見いだすことができるからだ。この非体系に誠実に向き合うための体系としてのノートテイキング的整理法が、ラディカルな変革を突きつけられる日は果たして来るのだろうか。もし来るのであれば、僕はその日を歓迎したい。