思記

よしなしごとをそこはかとなく

矯正から共生へ -我々はいかに共にあるか-

切り分ける重要性

僕は論理的な人間だとよく言われる。言語化を好むともよく言われる。そしてたまに「論理だけが全てじゃないよ」「なんでも言葉にできるって思わないで」と諭される。お言葉ですが、と僕は心の中で思う。そんなことは僕は百も承知である。僕は論理や言葉の限界をよく知っているつもりだ。そしてそれこそが、僕は論理的であろうとする理由であり、なるべく言語化しようとする理由である。

少し説明を加えよう。なお、言語化するというのは言語という外部の形式に事象を位置付けるという行為であるため、必然的に(ある種の)論理的思考を伴う。また、論理的思考のためには事象を操作可能な概念にする必要があるため、必然的に(ある種の)言語化を伴う。論理と言語の複雑な関係については本題から外れるのでこれ以上言及しないが、以下の文章では、言語化と論理的思考は近しい概念として取り上げる。概念を杜撰に用いていることは自覚しているが、どうかお許しいただきたい。

他者という事象は、言語化可能なものと言語化不可能なものが入り混じっている。全て言語化可能であれば、これほど楽なことはない。しかしそうではないと我々は直感的に知っている。しかしそこで「この事象は言語化不可能」と断定してしまうことは思考停止である。言語化可能なものと不可能なものの混成物を前にして我々がなすべきことは、事象から言語化可能な部分と不可能な部分を切り分け、前者を言語によって処理してしまうことだ。それによって、言語化不可能な問題に我々はようやく向き合うことができる。

多くの場合、前者の問題は大した問題ではない。なぜなら言葉を与え、論理的に思考できる部分については、論理に従って結論を出すことができるからである。問題は後者である。後者の存在ゆえに、その事象が提起する問題は回答が難しくなっている。ゆえにこのような問題に直面した時には、言語や論理によって回答できる部分を先に処理して、その上で言語化できない後者を真正面から見据えるべきだ。だから僕は論理的であろうとするし、言語化できる部分はすべきだと考えている。

類似した構造として、お金と社会問題の関係があるだろう。お金で解決できる問題は重要な問題ではない。ゆえに社会問題の解決のためにお金は重要である。なぜなら、社会問題の根幹にあるのはお金では決して解決できない問題であり、その問題に全力で取り組むべきなのに、お金で解決できるような”瑣末な”問題に足を取られているのは勿体無い。だから社会問題に向き合う時、我々がまずすべきは、どこがお金(あるいはその他の手段)によって解決できる部分であり、どこがそうでないかを見極めることだ。

切り分けるという暴力

ここまで書いてきたが、そもそも事象における言語化可能領域と不可能領域の二項対立はどこまで正しいのかという問題がある。それらのカテゴリーが所与として存在しているのではなく、むしろ、事象に外部から言葉を与えた瞬間に、言語化可能領域と不可能領域が立ち現れてくるのではないか。別様に言葉を与えれば別様に、その二つが立ち上がってくる。言語化不可能領域がそれ自体としてあるわけではなく、切り分け方次第で、事象の一部がその領域として色づいていくのだ。

こう考えると、論理的・言語的であろうとする自分は極めて攻撃的な存在なのかもしれない。なぜなら、いくら論理的であろうとしても、論理は中立ではありえないからだ。論理に先立ってその基盤となる自分があり、その自分に従って論理が組み立てられている以上、論理もまた自分の恣意的な枠組の一つに過ぎない。その枠組を振りかざし、さも中立を装いながら近づき、相手の総体を言語化可能領域と不可能領域に切断する。相手を自分なりの形で分解して、相手を理解した気になる。そんな人間と会話することは恐ろしい。いつ相手のナイフで自分が切り分けられるかわからない状態で、相手と落ち着いて話すことなんてできないだろう。中にはあえてそういうコミュニケーションを相手に対してとる人もいるが、僕はそういう人が嫌いだった。しかし、相手を理解しようとする気持ちが動機としてあったとはいえ、僕もまた、そういう人間だったのかもしれない。

でも、それでも、僕は他者を理解したい。きっとわかりえない何かがそこにあることは知っているし、枠組を当てはめてしまう暴力が不可避であったとしても、でも僕はあなたをわかりたいし、あなたにわかってほしい。そのために僕らができることは、お互いを自分の枠組で整理しつつも常に枠組に対する懐疑を抱き続け、場合によっては解体する勇気をもつことだ。それがコミュニケーションというものだろう。こんなにも論理や言語は不完全なのにも関わらず、残念ながら、人類はそれ以上に普遍性のあるやりとりの仕方を見いだせていない。だから僕らは、僕らの手持ちのこれらを、なんとか使って生きていくしかないのだ。そう信じて、論理や言語の危うさや不完全さを十二分に理解しつつも、今日もそれに頼り続ける自分がいる。

足場を矯正することなく他者と共生する

さて、先ほど、言語化できない領域の方が人間にとって重要だという話をした。では、言語化不可能領域とはどういうものだろうか。

こういう時は、逆のものを考えてみればわかりやすい。言語化可能領域とはどういうものだろうか。要するに言語化可能で論理的に思考可能な部分である。「あなたはどういう人間ですか」と問われた時に回答可能なもの、といえばわかりやすいかもしれない。「私は生真面目な人間です。今まで一度も学校を休んだことがありません。」「私は小さい時に野球をやっていたことから野球観戦が好きで、阪神タイガースの開幕ゲームは毎年行ってます。」などである。

「なぜそうなのか?」という問いを自分にぶつけ続けて、このような自分の言語化可能領域を無限に増やしていくとする。とすると、どうしても最後に、「言葉にはできないけどこれはどうしてもこう」という部分が生まれる。なぜか、と問われてもこうだから、としか答えられない箇所が必ずある。なぜなら論理には足場が必要だからだ。その足場は、我々の中にどうしようもなく存在しており、説明不可能なくせにそのどうしようもない足場から全てが出発しているのだ。それはもはや信仰に近い。結局のところ、それが神であるかどうかはさておき、人は何かを無条件的に信じなくては生きていけないのだ。生きることの基礎付けは、生きることの内部では不可能なのである。

そしてその足場は、他者から見ればなんとも非合理的で、不恰好で、不自然に見えるかもしれない。しかしその当人にとっては、そうであらねば、いろんなものが崩れてしまうのだ。だから、それを解体しようとする他者に出会った時、そしてその解体がその足場に触れてしまった時、人は極めて防衛的になる。そこを崩されてしまえば、自分の全部が崩壊してしまう。自分の整合性が破れて、矛盾に自分が晒されてしまう。その破壊から身を守るために、解体者を人は遠ざける。それは防衛本能と呼んで良いものかもしれない。

このように書くと、この足場なるものは不変で、人間の人生を縛り続けるもののように思えるかもしれない。人間は結局変わらないという本質主義かと思う人もあるだろう。しかしそれは違う。諦めるのはまだ早い。足場は確かにどうしようもないかもしれないし、足場自体をどうこうするのはできないかもしれない。しかし、捉え方を変えることによって、足場の位置をずらすことはできる。この「ずらす」という作業が重要だ。何かのきっかけで世界の見え方がガラリと変わった経験は誰にでもあるだろう。それと同様に、自分のなかでどうしようもなく存在する何か、それ自体を取り除いたり改変したりすることが不可能だとしても、それとどう向き合っていくかを変えることはできる。

だから、自分が理解できない他者が眼前にいた時、我々がすべきことは、相手の足場を自分の言語によって暴いて否定するのではなく、かといってそのどうしようもなさの前に立ちすくむのでもない。自分と相手の体系をすり合わせ、可能な限り相手に内在的に、相手の中にあるどうしようもなさを理解する。その上で、それとどう向き合っていくべきか、それと世界をどう接続していくかについて思考する。他人の非合理性を糾弾したって意味がない。だって人間なんて程度が違うだけで誰もがいい加減で、誰もが非合理的なのだから。大事なのは、「相手のどうしようもなさをどう矯正するか」ではなく「そんなどうしようもない他者といかに共に生きていくか」である。各々の信仰の自由を最大限に尊重しつつ、それをいかに共生に導くかについて考えを巡らせる。矯正から共生へ。ユートピア的と言われるのは百も承知だが、僕が知る方法の中で、これが最もベターな在り方だと思う。