思記

よしなしごとをそこはかとなく

分解・理解・再構築-春から大学生の君に僕が伝えたいこと-

4年前の僕に贈る言葉

桜がほころぶ季節となった。春は新天地に身を投じる季節でもある。今回は、大学生活5年目を迎えようとする僕が、大学生活をこれから始めようとする人々に向けた文章を書きたい。とはいえ春から大学生になる人をぼんやり想像して一般論を語ったところで、毒にも薬にもならない文章が出来上がるだけだろう。だから僕は、以下の文章を、4年前の自分に向けて書く。まだ何も知らなかった自分に向けて、彼の無知をあげつらうわけでもなく、しかし彼の青い気持ちをむやみに称揚するのでもなく、僕が彼に向けられる全力の誠実さで、彼のこれからの日々に向けた助言を贈りたい。以下の文章が彼に届くことは残念ながらないが、その代わりに読者諸君に、何かしらの気づきを与えられれば望外の喜びである。

分解・理解・再構築

さて、4年前の僕へ。今の僕が君に伝えたいことは、たったひとつだけだ。

 

「分解・理解・再構築の絶え間なき繰り返しによって己を知りなさい。」

 

大学生活は学生と社会人の結節点にある。今まで自分が蓄積してきたものを社会とどう接続していくか、それが大学生活で君が考えるべきことだ。とはいえ、大学生活でその完全な回答を見つけることは不可能だと僕は思っている。そこには暫定解しか見出し得ない。大学生活を過ぎて、その回答が変わることは大いにあり得るだろう。だから大切なのは答えそれ自体じゃない。その答えをどうやって見つけていくかのプロセスを自分でしっかり持つことだ。そのプロセスこそが、上記の「分解・理解・再構築」である。以下、順番に説明していこう。

分解

おそらく今の君は、自分に自信を持っていることだろう。自分の成し遂げてきたこと、それを成し遂げさせた自分の能力によって、これからの道を切り開いていけると信じていることだろう。しかし、それは愚かであると言わざるを得ない。君はこれから、全く違う尺度、価値観に溢れた新たな場所に行く。その場所に行くのに、君自身がそのままでいられるわけがないだろう。そのことに気づかない君は、今までの自分を否定する恐ろしさから逃れるために、新天地でもがき苦しむことになる。これまでの人生で多くを成し遂げてきたことが、逆に君の枷になる。君の行動を縛り、思考を縛り、君を溺れさせる。しかしその枷を外してしまうことは、君の自信の根源をも奪うことだから、君はその枷が君の首を締めようとしても、その枷を外そうとしない。

あえて言おう。君がまずすべきは徹底的な自己破壊だ。君は君の存立基盤から、全て打ち砕く覚悟を持たねばならない。自分の語り、自己理解、無意識な自分の擁護、そういったものを全て明るみに引きずり出してひとつひとつ断罪して行く。君が内面の整合性を優先した結果、放置してきた位置付けられない何者かを心の中に迎え入れねばならない。つらく苦しい作業だが、残念ながら、君はこれを避けて通ることはできない。

では具体的にはどう破壊できるのか。そこで用いるべきが外部である。

例え話をしよう。大学で書くレポートには、作法がある。引用方法や文章の書き方、注釈の付け方など、細かいルールがたくさんある。なぜそんな細かいルールに縛られなければならないのか、自由に書かせてくれと君は思うだろう。しかしそれは違う。君は一見自由にものを書いているように見えて、実は君は君の中の慣習の奴隷になっている。そこで、外部にある方法論を学びそれに従うことで、君は君の慣習から自由になることができる。このように、外部を知り、それを取り込んでいくことは、自分の中にある自分の慣習を自覚し、それを相対化することができることに繋がるのだ。

その外部は、なんでもいい。それは本当に人によってそれぞれだからだ。僕の場合、それは哲学や思想だった。自分の漠然とした人生の問い、社会への問いを彼らも引き受けて、彼らなりの回答を示していた。読み始めた当初は、彼らを自分の中で位置付けられずに苦しんだが、それを乗り越えて彼らの思索をゆっくりと追体験することで、自分の思索をより深めることができた。それを学ぶ前と後では、世界の見方が全く変わっていて、複雑な世界を複雑なまま捉えることが少しずつできるようになってきた。

学問、特に人文系の学問は、そういう意味では自己破壊に向いているかもしれない。しかし人文系の学問を学んでも自己破壊に至らない人もいれば、そういうものを全く学んでなくても、別のルートで自己破壊に至る人もいる。例えば恋愛。例えばスポーツ。例えばサークル。例えばバイト。要するになんでもいいのだ。既存の自分では位置付けられない何者・何物かと出会い、その何者・何物かから逃げずに向き合い、所与としてきた自己に懐疑の刃を突き立てること。これが「分解」である。

理解

「分解」を重ねた先に、次の段階がある。それが「理解」である。

 自分自身を「分解」した君の前には、色々なものがバラバラに散らばっているだろう。これまで君を支えてくれたもの、君を君たらしめたもの、君を苦しめたもの、そういったものが全て君の眼の前に横たわっている。それらにさらに「なぜか」をぶつけ、徹底的に解体する。その作業を終えたら、まずは、その一つ一つに向き合っていこう。君の場合でいえば、「自信がないのはなぜか」「なぜ社会に関わりたいのか」「なぜ生きるのが苦しいのか」など、一言で答えられないような、しかしきっとどこかにその理由があるはずのそれらの問いに対して、解体の先で露わになった何物かが、きっと答えを教えてくれる。自分に問いを立て続けた先に、「自分とは何か」という問いに対する答え、それは常に暫定解でしかないのだけど、しかし現状で出せる精一杯の答えが見つかるはずだ。

その答えは必ずしも言語化できるものではないかもしれない。あるいは、言語を含めた外部の体系に回収できないものかもしれない。それは当然だ。だからこそ、「どこを言語化できないか」を自分の中で言語化することは大切だ。そしてさらに言えば、その「言語化できない」ものが大切だったりする。だってそれは、いかなる論理やレトリックを持ってしても、否定できない君の何かだからだ。それがどこにあり、どういう形をしているかをなんとなく掴む。それが「理解」だ。

ここで注意してほしいことがある。「理解」を「理解」として処理するためには言語という形式を与えなければならない。しかし「理解」それ自体は形式ではないため、たとえ最良の形式を与えたところで、自分自身の変化、あるいは周囲の環境の変化によって、「理解」は暴れ出す。その形式を食い破ろうとする。君はそれを否定してはいけない。「理解」が暴れ出したら、またこの段階に戻って、新たな形式探しをしなくてはならない。「理解」とは小さな子供のようで、少しの時間で目まぐるしく変化する。君はそれに付き合ってあげなければならない。常に「理解」とは仮置きでしかない。それを忘れないでほしい。 

再構築

さて、「理解」を実現した君がすべきは、もう来た道を引き返すのみだ。君が形式を与えた「理解」を中心に、一つ一つ、脱いだ服をまた着るように、もう一度自分を組み立てていこう。なんだ結局元の自分に戻るだけじゃないか、と君は思うかもしれない。しかし、それは違う。自分とは何か、という問いから自分を組み立て直す作業を一度経験してみれば、その違いはわかるはずだ。今までなんとなくしていた判断、なんとなく持っていた認識枠組、世界観、そういったものが自分への問いと連関していることに君は気づくだろう。自分という存在を支えるネットワークを君は自覚するだろう。もしかしたらそのネットワークは組み変わるかもしれない。ラディカルな変容があるかもしれないし、ないかもしれない。しかし大事なのは変容の程度ではなく、君を構築している糸一本一本をほどき、知り、また結び直すという行為それ自体である。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチに"connecting dots"(点を繋いでいくこと)がある。人生の様々な出来事が繋がって思いがけない成功に導かれることもあるかもしれないから全てを大事にせよ。そういった教訓だ。ここで注目すべきは、点ではなく、それをつなぐ主体としての自分である。ジョブズの表現では、人生は点をつないでどこかに向かう曲がりくねった線のような印象を受けるかもしれないが、僕は人生をネットワーク的に捉えている。生きるということは、様々な点が自分という場に登場することであり、そしてその点を自分なりの方法で自分の内部に位置付けていくということだ。その中でうまく位置付けられない点もある。なぜかうまく位置づく点もある。そしてそれをつなぐ主体としての自分が存在するわけだが、我々はその主体について実はよくわかっていない。いったい何をどう思って、あるいは何があったから、点と点はそのように繋がっているのか。さらに言えば、なぜそれを点だと考えたのか。新たな点が生まれた際に、なぜその点を所与のこの点と繋いだのか。主体は中立的なように見えて、およそ偏屈で頑固である。僕が提案したいのは、それを受け入れた上で、自分はどのように偏屈なのかを知る終わりなき努力への第一歩を踏み出すべきだということだ。「再構築」を実現した君は、それ以前の君よりも、少しだけ自分を知る人間になっていることだろう。

もちろんこれは、簡単なことではない。これを実現するためには、思考力や行動力はもちろんのこと、位置付けられなさに耐える精神力が必要だ。自分を「分解」していく過程で、君はおそらく、思ってもみなかった生々しい自分と出会うだろう。それを君は位置付けられず、思わず蓋をしてしまうかもしれない。「分解」とは要するにその蓋を開けて、その中身に顔を突っ込むということだ。位置付けられなさとは、すなわち矛盾である。そして人間は矛盾に弱い。矛盾は時に人を殺す。故に、この一連の作業とは、自死と再生のプロセスということもできるかもしれない。

なぜわざわざそんなことをしなければならないのかって?それはサークルの飲み会を経験する前に親の前でお酒を飲んで潰れてみることとよく似ている。君を内側から殺す矛盾を暴く人間は、君だけとは限らない。いやむしろ、外部からそれを暴いて君をめちゃくちゃにしようとする奴なんてごまんといる。意図はなくても、結果的に君がそうなってしまうことはある。そういう奴に付け込まれないように、君は殺しても殺しきれない何物かを自分の中に見つけて、それを捕まえられないとしても、形式という籠の中に閉じ込めておかなければならない。だから君は誰よりも深く君自身の中に刃をつきたて、かつ、そこから生還しなければならない。死なないギリギリを見極めて、何度もチャレンジする必要がある。それで死んだら元も子もないから、やばいと思ったら撤退する勇気も必要だ。全て一度にやる必要はない。まずはできる範囲から、傷口をお風呂につける時に指を一本一本離していくように、ゆっくりじっくりやればいい。君にはその時間があるのだから。

おわりに

さて、ここまで長々書いてきたが、僕には君の反応が予想できる。君はきっとぽかんとした顔で「何言ってんだこいつ」と呟き、パソコンを閉じるだろう。わかっているのでそれで構わない。そもそもこの文章自体が、未経験者に経験を伝えるというおよそ言語化不可能な試みなのだ。だからより実践的でシンプルなアドバイスをしよう。

 

「誠実な思考と共に毎日を生きなさい。」 

 

生きていく上で、君はこれから多くの外部に出会うだろう。それは君を時に楽しませ、時に苦しませる。その時、思考することから逃げないでほしい。なぜ自分はこうなのか?自分とは何か?それを問い続けながら生きてほしい。もちろん人間は自分を外部化できない存在だけど、自分を一度対象化して、その上で再び引き受けるということができれば、君はどんな苦難も越えていけると僕は信じている。矛盾は人を殺すと言ったが、矛盾は生きる理由にもなる。だから君は自分の矛盾から逃げて欲しくない。自分という不思議から逃げずに向き合ってほしい。その先に、君の引き受けるべき自分がいるはずだ。

そして君はもう気づいているかもしれないが、この文章は君に語りかけるものであり、僕自身に語りかけるものでもある。僕もまだ、「分解・理解・再構築」の途上にある。この終わりなきプロジェクトの先に何があるのかわからない。でも、その先にいる自分は、きっと今より優しく強い自分だと僕は信じている。

 

最後になるが、旅立ちの期待と不安でいっぱいの君に、心からのエールを。