思記

よしなしごとをそこはかとなく

メイヤスーと大澤真幸とBUMP OF CHICKEN

はじめに

僕の世代でBUMP OF CHICKENが好きな人は多いだろう。僕もその一人である。その中でも特に好きなのが「カルマ」である。以下に歌詞の一部を引用する。

ガラス玉ひとつ落とされた 追いかけてもうひとつ落っこちた
ひとつ分の陽だまりに ひとつだけ残ってる

心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る
奪われない様に守り続けてる

汚さずに保ってきた 手でも汚れて見えた
記憶を疑う前に 記憶に疑われてる

(中略)

存在が続く限り 仕方無いから場所を取る
ひとつ分の陽だまりに ふたつはちょっと入れない

ガラス玉ひとつ落とされた 落ちた時何か弾き出した
奪い取った場所で 光を浴びた

(後略)

藤原基央(作詞・作曲)(2007)「カルマ」『orbital period』 (文字起こしは筆者)

以下で述べるのは、ここで引用した「カルマ」のメッセージを、カンタン・メイヤスーの思弁的実在論と結びつけて考えるという試論である。

各章の簡単なまとめ

第1章では、メイヤスーの『有限性の後で』を参照して思弁的実在論を概観する。メイヤスーはカント以降の相関主義を徹底することで、「実在が偶然的であるということ(偶然性)こそが絶対的な必然である」という結論に至る。

第2章では、『有限性の後で』に対する大澤真幸の批判を概観する。大澤は、「どうして、実在が偶然的(※1)である、とわれわれは知っているのか?」ということをなお問うべきであると指摘し、それは「私が他者の絶対的な実在を確信しているから」であると主張する。

第3章では、大澤の指摘を受けて、「どうして、私が他者の絶対的な実在を確信しているのか?」という問いを検討する。「他者」とは偶然性の中で「私のいる場所にいてもおかしくなかったすべてのもの」であり、それらの他者の犠牲の上に自分が実在しているという意識ゆえに、私の実在への確信はすなわち他者の実在への確信となるのだ。

 

1. メイヤスーの思弁的実在論

まず、メイヤスーの思弁的実在論とは何かについて簡単に述べよう。以下千葉・東(2016)を大いに参考にしつつ述べる。

メイヤスーの問題意識:「絶対的なもの」を取り戻す

メイヤスーが『有限性の後で』で主張しているのは、人間の思考とは独立して「実在」する「モノ」がある、ということである。メイヤスーがこれを強調したのは、カント以降の哲学が「私たち人間が世界についてどう考えるか」という考え方の枠組みばかりを研究してきたためだ。

カントは「モノ」(=「物自体」)は認識不可能であると主張し、それによってカント以降の哲学は、「モノそのもの」「世界そのもの」を考えるのではなく、「世界についての人間の思考の枠組み」だけを考えるようになった。これによって、カント以降、「モノ」は、「人間の思考の枠組み」と切り離せなくなった。

思考とモノが必ず相関する、このようなカント以降の哲学の立場を、メイヤスーは「相関主義」と呼ぶ。メイヤスーの整理では、現象学(わたしにとって世界がどう現れているかを考える)や分析哲学(言語や論理と世界の関係性を探求する)も相関主義の枠から離脱できていない。カントから現代に至る相関主義を批判することがメイヤスーの大きな目的である。

戦略としてのカント以前の哲学: デカルト

相関主義を批判するためにメイヤスーがとった戦略は、モノが人間と独立にあるということを断固として追求すること、すなわち「絶対的なもの」を追い求めることである。

メイヤスーはカント以前の哲学者であるデカルトをモデルにする。デカルトは数学的な真理が確実なものであると下が、その真理性を保証するものは何か。そこには、真理性をめぐる二段構えのモデルがある。

デカルトにとって、真理性を保証する第一原理は「神」であり、そこから派生して真理性が保証される「数学」がある。メイヤスーは、デカルトのこの二段構えを引き受けた上で、そこから神を削除したらどうなるかを考えた。

カントによる批判: 「独断的形而上学」としてのデカルト

そもそも、カント以前の哲学者の問いは「世界はどうしてこうなっているのか」であった。しかし「世界はどうしてこうなっているのか」の理由を探そうとしても、理由の理由の理由…という形で無限に交代してしまう。それが止まるとしたら、ほかのなにものにも依存しない、それ自体がそれ自体の理由になっているもの、すなわち「絶対的なもの」を持ってくるしかない。

カント以前の哲学者にとって、その「絶対的なもの」はイデア(プラトン)であったり、モナド(ライプニッツ)であったり、 まさに独断的に決められていた。そして、「絶対的なもの」の究極の形態が「神」ということになる。

この前提となるのは、哲学史における「理由律」の概念である。この世界に存在するものにはなにかしかるべき李ううがある、ということが前提とされているのだ。

これに対し、カントは相関主義的な議論を立てることで、「絶対的なもの」を、神だ、イデアだ、モナドだ、と勝手に決めて確保しようとする哲学者を「独断的形而上学」として批判した。

これにより、カント以降の哲学はある種のジレンマに陥ってしまう。デカルトのように「絶対的なもの」を「神」とする独断の道へは戻れない。しかし、相関主義の外に出るためには、「絶対的なもの」を考えるしかない。

理由律から非理由律へ: デカルトとカントを批判的に継承しつつ「絶対的なもの」へ

では、メイヤスーはどのようにこのジレンマを解消しようとしたか。

まずメイヤスーは、「ものごとには理由がある」という「理由律」を退ける。独断的形而上学では、神のような「絶対的なもの」が、世界の存在の必然性を支える役割を背負っていた。しかし「そもそもものごとには理由なんてない」と考えることで、「絶対的なもの」から、世界がこのようである理由という役割を切り離す。そうすることでようやく、カントの批判を引き受けつつ、「絶対的なもの」を思索することが可能となる。

つまりメイヤスーは、「絶対的なもの」を確保するために、理由律から「非理由律」へという方向に向かうのだ。本文より引用する。

いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような究極の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる究極の法則が不在であるからなのである。(メイヤスー2011=2016:94)

偶然性の絶対性: 偶然性こそが絶対的な必然である

よって、メイヤスーの哲学では、この世界がこうであることに理由はなく、たまたまこうなっているに過ぎない。この世界の全てに全く必然性はなく、今ある世界は全く偶然にこうなっているだであり、神はおらず、理由も必然性もない。

ここから、メイヤスーの考える「絶対的なもの」が見えてくる。すなわち、「偶然性こそが絶対的に必然である」ということが、メイヤスーにとっての「絶対的なもの」なのだ。これがメイヤスーの主張である。 

 

2. 大澤真幸のメイヤスー批判

メイヤスーは「偶然性(この世界が全く別様になりうるということ)」 を「絶対的なもの」として捉えることで、相関主義の循環に穴を開け、絶対的なものの実在を確保しようとした。

神の存在論的証明: 「神」は「存在する」を含む

大澤真幸は、メイヤスーの証明の背景に神の存在論的証明があることを指摘する。神の存在論的証明とは、西洋では中世以来知られていた伝統的な論理である。至高の存在としての神という概念は、「存在する」を含んでいるがゆえに、神は存在するとする証明である。神は完全なものであるため、「神」という概念にはポジティヴなものを含意する様々な述語(例えば「全知である」とか「全能である」とか)が含まれている。その中の一つに、「存在する」も含まれている。つまり、「神」は「存在する」という概念をすでに含む概念なのだ。ゆえに、神は存在する。これが神の存在論的証明である。

カントによる神の存在論的証明批判: 「存在する」は述語ではない

メイヤスーの証明は、神の存在論的証明のフォーマットに従っているが、存在論的証明に対しては、カントの『純粋理性批判』において説得的な批判がある。少し長いが引用しよう。

論理的述語と実在的述語(つまり事物を規定するもの)とを取りちがえることで生じる錯覚が、ほとんどどのような忠告も聞き入れないほどであるしだいに、仮に私がきづかなかったとしたならば、まわり途などいっさいせずに、現実存在という概念を精確に規定することをつうじて、こうした煩瑣な議論を無効なものとしようと念ったことはたしかである。論理的述語としては、なんであれ好きなものを全て用いることができる。そればかりではなく、主語も自分自身について述語づけられることができる。論理学は、あらゆる内容を捨象するからだ。しかし規定は主語の概念を超えて付け加わり、主語の概念を増大させるような述語なのである。このような規定は、だから主語の概念のうちにすでに含まれていてはならない。

存在する(Sein)」は明らかに何ら実在的述語ではない。つまりなんらかの事物の概念に付け加わりうる或るものの概念ではないのである。それは、単に或る事物の定立、あるいはある種の規定自体そのものの定立に過ぎない。論理的使用にあって、「ある」はもっぱら判断の繁辞で或る。「神は全能である」という命題は、神と全能というそれぞれの客観を有する二つの概念を含んでいる。少詞「ある」はそれらにさらにつけ加わる述語ではなく、たんに主語に関係づけるしかたで述語を定立するものに過ぎない。

(A598:B626:p.604)

カントによれば、「存在する」は、なんであれ好きなものを全て用いることができる「論理的述語」ではあるが、主語概念において含意されていることと両立しない可能性がある規定を含む「実在的述語」ではない。神という概念に含まれるポジティヴな概念は、後者の「実在的述語」である。ゆえに、カントは、神という概念から存在を分析的に演繹することができないため、神の存在証明は成立しないと考えた。

ここについて補足的に例を挙げる。例えば「神はロバである」は矛盾している。「ロバである」は実在的述語であり、主語概念である神において含意されていることと両立しないからである。しかし、「神は存在する」も「神は存在しない」もどちらも、主語概念と矛盾することがない。なぜなら、「存在する」は「実在的述語」ではないからだ。

メイヤスーの証明と神の存在論的証明の類似

大澤は、まず、メイヤスーの証明が神の存在論的証明と類似した枠組を用いていることを指摘する。神の存在論的証明は、我々が、至高の存在である神について考えることができるという事実を前提にして、ここから、至高の存在である神が存在しているという結論を導き出している。

そしてメイヤスーもまた、我々が、世界が偶然的である(別様でもありうる)ということについて考えることができる、ということを前提にしている。つまり、「我々に対して実在が現れているあり方」と「それ自体としての実在のあり方」の間の埋められないギャップ(実在の絶対的偶然性)について、我々は思考することができる。ここから、偶然性そのものの現実存在、つまり、実在がそれ自体として根源的に偶然的であるという結論が導かれるのである。

すなわち、神の存在論的証明もメイヤスーの証明も、どちらも、「神」や「偶然性」について我々が思考できることを前提にした上で、「神」や「偶然性」から、その概念の一部であるところの「存在」や「絶対的偶然性」を取り出している。

メイヤスーの困難: なぜ世界の偶有性を我々は知っているのか?

メイヤスーの証明が神の存在論的証明と類似した枠組を採用している以上、同様の批判がメイヤスーの証明にも当てはまるはずだと大澤は主張する。つまり、「存在」が実在的述語ではないとすれば、世界の偶然性について考えることができる、ということは、偶然性が絶対的なものであるということを示すものにはならない。

では、どうすればよいのか。メイヤスーは、我々が実在の偶然性の可能性について考えることができる、ということを出発点に論証を始めた。しかし、なお問わねばならなかったのは、「どうして実在が偶然的であると我々は知っているのか?」という点であると大澤は指摘する。私に対して世界がこのように現れている時、私はどうして、この世界が偶然的であると知るのだろうか?私に対しては、世界はこのようにしか現れていないのに、世界は別様でもありうると私が知っているのはどうしてなのか?私は、自分に対しての、世界のこの現れ方が全てではないと知っている。つまり、私に対しての世界のこの現れ方は部分的で、特異に偏っていることを知っているのだ。しかし、どうして、私はそのことについて確信を持てるのか?

偶然性へ私を開くものとしての「他者への確信」

この問いに対する大澤の回答は以下の通りである。

それは私が他者の絶対的な実在を知っているからである。他者とは、それに対して世界が(私とは)別様に現れるようなトポス(場所)のことである。他者が存在しうるということは、私にとっての世界のこのような現れが偶有的であるということを必然的に含意する。他者こそは、思考と咳あの相関主義的な循環から独立した、絶対的な実在である。わたあしは、他者の存在に関して、私の存在と同等の確信を持っている。この他者の存在への確信こそが、私の世界の偶有性の可能性を思考できることの根拠になっているのだ。(大澤2018:65)

メイヤスーは「絶対的なもの」の根拠として「世界の偶然性について思考できること」を出発点として提示した。一方大澤は「世界の偶然性について思考できること」の根拠として、出発点をさらに遡り、「他者の絶対的実在への確信」を指摘した。

 

3. BUMP OF CHICKENと他者への確信

前章まででメイヤスーと大澤の議論を整理した。その上で気になるのは、「他者の絶対的実在への確信」とはどういうものであり、それはどこから来るのか、という問題である。本章ではこれについて考察し、メイヤスーに対する大澤の批判を深めることを目指す。

大澤は「私は、他者の存在に関して、私の存在と同等の確信を持っている」と述べた。これはなぜか。それは、自己の存在が他者の存在を犠牲にして成立しているものであり、さらに、自己と他者の非対称な関係性において、自分が犠牲を強いる側にいることには何の必然性もなく、全くの偶然によるものだからである。整理すると以下のようになる。

  1. 自己の存在は他者の存在を犠牲にして成立している
  2. 自己が犠牲を強いる側にいるのは全くの偶然である
  3. 故に我々は自己の実在を通じて自己と同様の他者の実在を確信している

順番に見ていこう。

なお、以降の議論における「他者」概念についてここで言及しておきたい。大澤は「他者」をコミュニケーションによって関係を作れる主体であると定義しているが、以降では他者はより広く捉えられる。現前している人に限らず、人以前の人、人以外の命の存在も「他者」に含めて議論する。

1. 自己の存在は他者の存在を犠牲にして成立している

我々が生きていくためには、何か/誰かを犠牲にしなければならない。その醜い事実を鋭く抉り出すには、哲学よりも詩の方が優れていると言えるだろう。以下では二つの詩を紹介する。

くらし 石垣りん

 

食わずには生きてゆけない。

メシを

野菜を

肉を

空気を

光を

水を

親を

きょうだいを

師を

金もこころも

食わずには生きてこれなかった。

ふくれた腹をかかえ

口をぬぐえば

台所に散らばっている

にんじんのしっぽ

鳥の骨

父のはらわた

四十の日暮れ

私の目にはじめてあふれる獣の涙。 

 

石垣りん詩集』pp102-103より。

I was born 吉野弘 

 

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 

 女はゆき過ぎた。

 

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね----
 僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは----。

 

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体----。

 

吉野弘全詩集』pp.67-69

上記の詩に共通するのは、存在していることの罪深さ、原罪意識への目覚めである。これは冒頭で引用した「カルマ」の歌詞にも現れる。心臓が動き命が始まった瞬間から、存在のために人は場所を奪い合う。その奪い合いに敗れたものは、存在を許されない。生きるために奪い合い、そこで脱落する人間がいる以上、存在している人間の手は汚れてしまう。生きているだけで、どうしようもなく汚れていく手への自覚が、「カルマ」の歌詞には現れている。

2. 自己が犠牲を強いる側にいるのは全くの偶然である

しかし、存在のために他者を犠牲にしなければならないという事実だけでは、他者の存在を確信することにはならない。他者は自分の存在のための手段として犠牲にするものと捉えれば、他者の存在を確信しなくても存在できるからである。他者の存在を確信できるのは、他者が、確信できる自己の存在と繋がっているものだと思えるからだ。では、なぜ他者と自己は繋がっているように我々は感じるのか。

それは、自己の存在が偶然性の産物であることに由来する。受精を例にとって考えてみよう。性交時に女性の体内に入る精子の量は1000万と言われているが、そのうちめでたく受精するのは当然1つだけである。精子だけを考えたとしても、この世界に生まれてきた時点で、我々は999万9999の他者の上に存在していると言える。このように、様々な位相において、存在できている自己と存在できなかった他者の間に差は全くない。そして、その自覚故に、今存在できている自己が、これからも存在し続けられるかの保証もない。自己と他者の境界は曖昧であり、我々はいつ存在を失ってもおかしくない。

3. 故に我々は自己の実在を通じて自己と同様の他者の実在を確信している

我々は、自分の場所にいる可能性もあった他者を想像し、恐怖する。自己存在は、何者にも基礎付けられていない。偶然性溢れる世界とは、「自分の代わりに存在するはずだったもの」に溢れる世界である。そのような世界では、我々は他者の存在を確信せざるを得ない。なぜなら、存在を確信する「他者」とは、偶然性のゆらぎが少し変わった世界における「自分」であり、他者の存在の確信なくしては自分の存在も確信できないのだ。これ故に、他者は概念として思い描かれているのではなく、私にとって、他者はまさしく存在しているのである。

おわりに 

メイヤスーの思弁的実在論は、絶対的なものとしての偶然性によってカント以降の相関主義を乗り越えようとした。その偶然性について思考することの根拠を大澤は他者の存在への確信に求めた。本稿はその根拠として、自己存在のために犠牲になった他者への意識を仮説として取り上げた。後半のオリジナルな部分の議論が薄く、前半の勢いがなくなって尻切れ蜻蛉になってしまった印象は否めないが、これが暫定的な自分なりの結論である。

 

参考文献

石垣りん(1968=2015)「くらし」『石垣りん詩集』伊藤比呂美(編)、岩波書店、pp102-103。

カント、イマニュエル(1787=2012)『純粋理性批判熊野純彦(訳)、作品社

大澤真幸(2018)「根源的構成主義から思弁的実在論へ…そしてまた戻る」『現代思想1月号 現代思想の総展望2018』青土社、pp.61-66。

千葉雅也・東浩紀(2016)「神は偶然にやってくる -思弁的実在論の展開について」東浩紀(編)『ゲンロン2 慰霊の空間』ゲンロン、pp.192-216。

カンタン・メイヤスー(2011=2016)『有限性の後で -偶然性の必然性についての試論』千葉雅也・大橋完太郎・星野太(訳)、人文書院

吉野弘(1952=2014)「I was born」『吉野弘全詩集」青土社、pp.67-69。

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※1 メイヤスーの"contingency"は「偶然性」の他に「偶有性」と翻訳される場合もあり、例えば千葉雅也は前者、大澤は後者を採用している。本稿ではcontingecyの訳語として「偶然性」を用いる。ただし引用の場合はこの限りではない。