思記 / @southwisteria の日記

流れに逆らう舟のように

「虚構」と「虚構」の間で ~改めてG1カレッジ論争を振り返る~

再開にあたって

少しだけ執筆から離れるつもりが、思いがけず長い休みとなってしまった。僕の文章を期待してくれている人はそうたくさんいないだろうとはいえ、仮にも「日記」と題するものを二ヶ月以上も放置していたのはいただけない。この期間中、書きたいことはいくつもあったのだが、どうもブログに気持ちが向かない自分がいた。その原因はやはり、G1関連の記事に伴う諸々のやりとりにある。再開にあたって、改めてあの一件を振り返ってみようと思う。わざわざ蒸し返さずとも、という声もあるだろうが、この作業は僕にとって避けては通れない気がするのだ。

改めてG1カレッジ論争を振り返る

まず、何があったのかを端的にまとめる。僕が本ブログにおいて、G1カレッジが過剰に「提案主義」的であることを指摘し、「批判主義」的視座を持つことの重要性を説いた。それに対して様々な応答があったが、それらの大半は反論というよりも防衛反応に近しいものであった。

では、彼らは何を防衛しようとしたのだろうか。この問いの回答は一見「G1カレッジ」であるように見えるが、僕はそうは考えない。僕の記事で展開されていたのはあくまでより良いG1カレッジのための建設的批判であり、土台となるG1カレッジそれ自体の価値を否定していた訳ではない。より厳密に言えば、「G1カレッジ」という回答は大きすぎる。彼らはG1カレッジにおける何を防衛しようとしたのか。僕はそれは「提案主義」であると考えている。

提案主義とは僕が以前の記事で用いた用語であり、以下のように定義している。

社会には問題があり、それらは変革によって解決されなければならない。社会の問題は喫緊に解決すべきなので、提案を重ねて変革を進めていかなければならない。変革のために、我々はまず具体的な行動を起こさねばならない。これがG1が共通認識として持っている価値観である。以下、G1のこの価値観を、「提案主義」と呼ぶ。

この提案主義は、G1カレッジというイベントの根幹をなすアイデアである。G1カレッジでは様々なジャンルの議論が展開されるが、この根本的な価値についての議論は行われない。社会変革のための具体的な行動を尊ぶ価値観は、所与のものとして参加者に共有されている。

ではなぜG1カレッジにおいて提案主義が重要なのか。一つにはこれを主催する団体の価値観の存在があるだろう。加えて、参加する層の学生が、多かれ少なかれ提案主義的パラダイムの中で結果を出してきた存在であることも忘れてはならない。何かを提案し、社会にインパクトを与えることによる成功体験が、彼らの自信やアイデンティティの根源となっている。それゆえに、自らに親和的な価値観によって形成された集団に対する彼らの愛着は強い。

そしてその愛着は、その価値観への挑戦者に対する攻撃性に容易に転化する。なぜなら提案主義への批判はG1カレッジ批判にとどまらず、自分自身のアイデンティティを揺るがしかねない問いに繋がるからである。何かを企画し、形にし、評価されるというサイクルによって自信を深めてきた人々にとって、何かを提案することで評価されるという考え方自体に対する批判は、自らの存在理由を揺るがしかねない。この自己破壊の危機に陥った時、人はとっさにその批判を排除して自己を救済しようとする。G1カレッジ批判に対する応答は、この構造で捉えることができるのではないだろうか。

虚構なき世界に人は生きられない

前章でG1カレッジ批判に対する防衛反応を示した人々の内面を考えた。簡単にまとめて言えば、彼らは「提案主義」という価値観を強固に内面化しているため、提案主義自体が正しいかどうかの問い直しを試みた記事を自己アイデンティティの危機と捉えて防衛反応を示した、という内容であった。

上記の議論を読んで、彼らを「批判に対してオープンでない偏狭な人間」と解釈する人もいるかもしれない。はっきりと言っておくが、それは誤解である。僕は彼らの特定の能力が劣っているとか、心が狭いとか、そのような観点で今回の一件を回収したくない。このような防衛反応を示してしまう心理は、僕も含めて誰もに存在するものだと僕は考えている。 

議論の補助線として、小坂井敏晶『責任という虚構』(東京大学出版会,2008年)を参照しよう。小坂井は本書において「責任と呼ばれる社会現象は何を意味するのか」について思考する。詳細は本書を読んでいただくとして、小坂井は「責任は社会的に生み出される虚構だ」という結論に至る。

道徳や真理に根拠はない、しかしそれにもかかわらず、揺るぎない根拠が存在するように感知されなければ人間生活は営めない、虚構として根拠が成立すると同時に、その恣意性・虚構性が隠蔽される必要がある。(p.iv)

妊娠中絶・脳死・臓器移植・クローン・安楽死・死刑制度など、どれをとっても合理的根拠など存在しない。無論議論は尽くされねばならない。そして何らかのコンセンサスに至るだろう。しかしどんな正当化をしようと究極的には恣意性を免れない。この答えが最も正しいと今ここに生きる我々の眼に映るという以上の確実性は人間には与えられていない。判断基準は否応無しに歴史・社会条件に拘束される。正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。その背景には論理以前の世界観が横たわっている。(pp.165-166)

社会秩序に根拠はないが、社会秩序がなければ社会は成立しない。このジレンマに対して、前近代の伝統社会に生きる人々が発明したのが<外部>としての神である。共同体の内部からは根拠づけられないルールを超越的存在である神によって基礎付けることで、伝統社会は社会秩序の恣意性・虚構性の隠蔽に成功した。

しかし神が死んだ近代において、この問題は再燃する。伝統社会において神が引き受けていた<外部>を近代社会においていかに位置付けるか。神が死んだ以上、近代社会における<外部>は、市場や法体系と同様に人間社会内部の制度として定位する他ない。<外部>の基礎づけとして近代には「責任」概念が存在するが、この概念が人工的に構築された社会契約である以上、「責任」は必ず内部に矛盾を孕む「虚構」である。近代社会はこの虚構の上に成り立っていることを小坂井は指摘し、以下のように結論づける。

神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける<外部>は生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。(p.247)

越境という倫理的プロジェクト

「あらゆる共同体において、その秩序を根拠づけているのは虚構。」これが小坂井の主張の骨子である。G1カレッジの例に戻って考えると、G1カレッジにとっての「虚構」は「提案主義」である。「提案主義」という虚構のない世界には彼らは生きられない。ゆえに、その虚構性を暴こうとした僕の存在は、共同体にとって排除の対象となる。

これは彼らに限った話ではなく、誰もに当てはまる。誰もが何かしらの虚構を基礎に、世界や自己を根拠づけている。僕の依拠する「批判主義」も例外ではない。僕は批判的に思考することで物事を正しく捉えることに価値を見出しており、それ自体の根拠づけも提案主義のそれと同じくらい経験的なものである。僕も人間である以上、虚構無くしては生きられない。

ゆえに、異なる虚構に依拠して生きる他者と向き合う時、我々は慎重でなくてはならない。たとえ他者の価値観が自分にとっては偏狭なそれであっても、それについて言及すると(たとえ否定ではなかったとしても)過剰な攻撃性を伴う応答を引き起こしかねない。相手の価値観を適切に見極める作業はゴールではなくスタートである。そこからいかに両者を越境する倫理的な翻訳可能性を見いだすことができるか。これは分断が進む現代社会において極めて重要なプロジェクトである。

乱暴な比喩で言えば、今回の一件は熱心なクリスチャンに対し無遠慮な無神論を展開したようなものなのではないだろうか。確かに世俗主義者の僕にとって、クリスチャンの彼らの信仰は受け入れがたい部分もある。しかし信仰によってアイデンティティを形成する彼らにとって、キリスト教の否定はそれだけに止まるものではない。そのことを考慮していたならば、より誠実な対話の手段を選択できたのではないか。これが今回の一件における僕の反省点である。