思記 / @southwisteria の日記

流れに逆らう舟のように

注目する責任について

母校との思わぬ出会い

先日、何の気なしにツイッターを見ていたら、母校の校長先生が書いた論文がシェアされてきた。「謂れのない圧力の中で」と題されたこの論文はツイッター上で爆発的にシェアされた。特に知識人層を中心に、校長の毅然とした対応を賞賛する声が多かったように思う。しかし聞いた話によれば、この文章は随分前に校長先生が個人名で同人誌に書いたものであり、現在はこのような嫌がらせは沈静化しているという。ではなぜ、今になって、これほど爆発的にこの文章がシェアされたのか。

 

黒塗りと付箋

少し調べてみると、どうやら2017年7月30日に放送された「MBSドキュメンタリー映像'17 教育と愛国~いま教科書で何が起きているのか」が事の発端であるようだ。以下、MBSドキュメンタリー'17公式ページより引用。

「善悪の判断」・「礼儀」・「国や郷土を愛する態度」…20以上の徳目がずらりと並びます。
それらを学ぶための読み物、それが「道徳」の教科書です。来年度から小学校で導入される「特別の教科 道徳」は、これからの時代の教育の要とされています。2020年度に全面実施される新教育課程には「道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行われる」とあり、まさに戦後教育の大転換といえます。
しかし、教育現場では賛否が渦巻いています。その背後では教科書をめぐって、文部科学省教科書検定や採択制度が、政治的介入を招く余地があるとの懸念の声があがっています。これまで歴史の教科書では、過去に何度もその記述をめぐり激しい議論が起きてきました。「もう二度と教科書は書きたくない」と話す学者がいます。「慰安婦」の記述をきっかけに教科書会社が倒産することになった過去の記憶が、いまも生々しく甦ると学者は重い口を開きます。一方、いまの検定制度のもとでの教科書づくりは、何を書き何を書かないか、まさに「忖度の世界」と嘆く編集者もいます。さらに学校現場では、特定の教科書を攻撃するハガキが殺到するような異常事態も起きています。
教育の根幹に存在する教科書。歴史や道徳の教科書を取り巻く出来事から、国家と教育の関係の変化が見えてくるのではないだろうか。教科書でいま何が起きているのか。これまで表面に出ることがなかった「教科書をめぐる攻防」を通して、この国の教育の未来を考えます。

この番組ではいくつかの論点が取り上げられていたが、この話題に関係のありそうな範囲で概略を示す。まず、戦時中日本軍が関わった問題として慰安婦を取り上げた結果、保守派から圧力がかかり、倒産に追い込まれた日本書籍という教科書会社が紹介された。その後、暗記ではなく考える歴史を教えることを目指す教員が集い編集された学び舎の教科書が取り上げられる。日本書籍の倒産以降、自粛の雰囲気があった中で、中学校の歴史教科書から消えていた慰安婦の記述を十数年振りに復活させたのがこの教科書だ。学び舎の教科書は難関私立校とされるところで特に導入されている。

問題はここからである。取材部は学び舎採用の学校に取材を申し入れたが、全ての学校から取材を断られた。その理由は学校に送られてくる大量の抗議葉書である。その内容は、匿名でOBを名乗り、反日教育をやめさせるよう求めるものだ。番組はその送り主を取材したのち、ある難関私立高校の校長がこの一件をまとめた教員向けの論文を紹介した。この論文こそが、まさに先ほどの「謂れのない圧力の中で」である。ただし、葉書に書かれた住所を黒塗りで潰し、論文の個人名を付箋で隠すなど、この番組内では一貫して個人名を特定されないような配慮がなされていた。学校名や個人名が特定されることで、この嫌がらせが再燃し、学校に迷惑がかかることに配慮してのものだろう。各校が取材を拒否したのも、おそらく同様の理由である。

 

無駄になった配慮

しかし結果的にこの配慮は無駄になった。この番組が放送された数日後、ジャーナリストの津田大介氏が「灘校の校長の声明文」として先述の論文を取り上げると、それらは瞬く間に拡散された。(タイムラインを見ていた印象では、津田氏がまず先鞭をつけ、その後インテリ層を中心とした人々が次々にシェアしたように思えたが、もしさらなる発信源が別にあれば指摘していただきたい。)

 津田氏のツイートは、あたかも灘校の校長が、現状に危機感を感じ、灘校としての公式声明を発表したかのように思える。しかし、それはミスリーディングと言わざるを得ない。この論文は教員向け同人誌に個人名で投稿された、いわば内部向けのものであり、社会にメッセージが拡散することを望む「声明文」などでは決してない。この論文が番組に取り上げられた際に執筆者と所属校が伏せられていたことからもわかるように、この論文は匿名の発信としての公開が希望されているものだった。それを「灘校の校長」の「声明文」であると解釈した津田氏の引用は、校長のその意図に一部反するものである。これについては、津田氏は後に訂正のツイートをしている。

もちろん、「声明文」だろうが「個人としての寄稿」だろうが、「文章の価値や、投げかけている問題の重さは変わらない」のは疑いがない。変わるのは、その情報の扱い方である。声明文でない以上、この論文が拡散されることによる影響)への対応を全て灘校に放り投げることはできない。これは私見だが、番組内容などを検討してみると、灘校は嫌がらせの再燃などの悪影響を危惧して、実名での取材を拒否したのだろう。津田氏のツイートは、灘校の意図を結果として全て無駄にするものとなってしまった。

 

注目する責任について

しかしこれを全て津田氏に帰責するのはいささか乱暴だ。番組内で取り上げられた論文が、誰もがアクセス可能な状態にあったこと、そして番組の内容を踏まえれば、誰もが灘校についてのことだとわかってしまうことなど、不運な要素がいくつかあったことは否めない。しかし「少し調べればわかる」という状態では、情報は拡散しない。それらをわかりやすい形で提示し、リツイートボタン一つで広げられる状態になって初めて情報は拡散する。世の中に広げるべき価値について、アクセス可能な形で発信する。本来ジャーナリズムとはそういうものである。だから今回も、津田氏は、ジャーナリストとして、自らの職務を全うしただけとも言える。事実、津田氏の問題提起によって多くの人がこの問題に支持を表明した。それによって勇気付けられた人もいるだろう。社会的な価値は、間違いなくあった。しかしそれを根拠に今回の拡散を正当化するのも、また乱暴である。

社会的な問題に向き合う上で、最も尊重されるべきは、その問題に悩まされる当事者である。今回のように、問題が問題として可視化され拡散されることでその問題が再燃しうるという場合においては、情報拡散は問題解決と逆行する可能性さえある。津田氏を含めて、この問題を拡散し意見を表明した全ての人は、善意と誠実さを持っていることは疑いない。それについては一人のOBとして心からの感謝を申し上げたい。しかし、まさにその善意と誠実さによって、苦しめられうる現場があることを想像した人が果たして何名いただろうか。自分の行為が当事者の問題解決と結びついていないのなら、それはたとえ善意であったとしても、肯定されるべきではないと僕は考える。善意と誠実さのある人間にこそ、その善意がどのような結果に繋がるか、まで思考し続けることを求めたい。それこそが本当の意味での「善」であり「誠実」ではないだろうか。

一人一人が発信者となるこの時代において、注目する責任についての想像力の必要性を痛感した一件だった。