思記 / @southwisteria の日記

流れに逆らう舟のように

「正しい自分史」という暴力

「留学どうだった?」

先日、心から尊敬する友人の一人と語らう機会があった。その帰り際に、印象的な言葉があった。

僕は数ヶ月前に留学を終えたばかりである。だから帰国後の会話は多くの場合、留学について僕が聞かれるという形式になる。しかしその会での話題は専ら相手の現状であり、僕のことについて話す機会はほとんどなかった。それについて冗談半分で言及した時、友人は以下の趣旨のようなことを言った。

 

「留学はどうだった?と聞くことは留学という体験を言語化・固定化させるということ、すなわちそうでない可能性を排除するものであり、時としてそれは暴力的なのではないか。」

 

友人と別れた後、電車の中で、これと似たようなことを考えた時があったのを思い出した。就職活動やインターンの選考におけるエントリーシート(ES)である(ここでいうESとは、就職活動において、企業に自分をアピールするための書類である)。職歴のない新卒学生にとっての一番の力の入れどころは、その中の自己PRだ。「あなたの強みはなんですか」「学生時代最も力を入れたことはなんですか」「あなたが直面した困難はなんですか、それをどう乗り越えましたか」これらの質問に既に食傷気味の読者もいることだろう。あるいは学生時代を思い出して懐かしむ方もいるかもしれない。

 

結論から言えば、僕はESが嫌いだ。より具体的に言えば、ESを書いている時の自分が嫌いだ。ESを書く時、僕は、あたかもその語りが自分にとっての絶対のように装わなければならない。どのように書いても生じうる違和感を黙殺し、相手企業にとっての最良の人材を歴史的に演じなければならない。まだ自分は面接というものをそれほど経験したことがないが、聞いた話では面接はESに基づいて実施されるようである。考えただけで頭が痛い。

 

正しい歴史と慰安婦問題

そんな時、ふと思い出したのが、随分昔に読んだ『ナショナリズムジェンダー 新版』(上野千鶴子)に掲載されている論文「記憶の政治学」における一節である。上野は本論文において、「慰安婦」問題をめぐって、ジェンダー史が提起した方法論的な課題を論じている。上野の主張自体を論じるのはこのブログの目的ではない。少々乱暴かもしれないが、上記の話題に対する補助線として、上野の指摘する「実証史学」と学問の「客観性・中立性」神話についてこのブログで引用したい。

 

上野は、今日(1997年)の「慰安婦」をめぐる問題は、「強制連行はあったか否か」「日本軍の関与を証明する公文書は存在するか否か」という「実証性」の水準で争われているとする。歴史修正主義に基づく「自由主義史観」の支持者は慰安婦の強制連行を示す公文書がないことを根拠に慰安婦問題の存在を否定しており、それに対して良心的な歴史家は「歴史の真実を歪めるな」と反論する。ここで、「歴史的事実というものが誰が見ても寸分違わないすがたで、客観的実在として存在しているかのような史観」を前提としており、上野は「事実」と「現実」を区別することでこの前提を批判する。慰安婦問題にあるのは単一の「事実」(=客観的実在としての歴史)ではなく、日本軍による「慰安婦制度」と被害女性による「強姦」というふたつの「現実」である。その上で、上野はこう主張する。

 

複数の「現実」の間の落差がどれだけ大きくても、どちらか一方が正しく、他方が間違っているというわけではない。ただし権力関係が非対称なところでは、強者の「現実」が支配的な現実になって、少数者に状況の定義を強制する。それに逆らって支配的な現実を覆すような「もうひとつの現実」を生み出すのは、弱者にとってそれ自体が闘いであり、支配的な現実によって否認された自己を取り戻す実践である。(pp.177)

 

企業にとって正しい自分史

ここで、本題に回帰する。人生史は、社会史や政治史以上に「事実」ではなく「現実」によって語られるものである。誰が見ても寸分違わない客観的な自己など存在しない。自分と他人で当然解釈は異なりうるし、自分の中でも、経験をどう解釈するかで多様な「現実」が生まれる。自己認識とは、そのような多様な「現実」の絶え間なき闘争において一時的に発生した動的な平衡状態に過ぎない。

 

その平衡状態に介入するのがESである。ESには書くべきエピソードや、個別の企業にウケのいい特徴が存在する。つまり、それらに相性の良い「現実」が強者の現実として支配的になり、弱者となる「現実」を圧殺する。就職活動では一貫性が重視されると聞く。しかしここでいう一貫性とは内的に醸成されたものではなく、あくまでも志望する企業から外的に注入されるものである。注入された「企業にとって望ましい存在として一貫性を持つべし」という圧力は、多様な現実の平衡を破壊し、単一の「現実」で自分の全てを語り切らんとする。しかしそれが無理だからこそ、我々の中では多様な現実同士の闘争があるのだ。選ぶ側と選ばれる側の権力的な非対称により、学生の自己認識は権力側に勝手に最適化される。結果として、就活生は、権力にとって「正しい自分史」を持った人間に自らを勝手に再教育していく。統治システムとして、これほど優れたものはなかなか存在しないのではないか。

 

就職後に鬱になる人や過労死する人が社会問題になり始めてから随分経つように思う。原因の一つに間違いなく制度はあるだろう。しかし一方で、このような選考プロセス自体が人に与える影響も考慮されるべきではないだろうか。企業にとって最適化した自己認識の不完全性が引き起こす自己矛盾に耐えられなくなれば鬱になるかもしれないし、自己認識を企業と同一化させ過ぎている人ばかりの集団は、過労死のリスクが高い集団である。ここについての推論は厳密ではないが、働きかけそれ自体の影響の有無、そしてその望ましさについての検討も、あっても良いのではなかろうか。