思記

よしなしごとをそこはかとなく

ラルンガルゴンパ旅行記③

前回の続きとなります。以下の記事を未読の方はそちらからどうぞ。

「ラルンガルゴンパ旅行記①」

「ラルンガルゴンパ旅行記②」

 

思いがけない始まり

検問は思いがけないところから始まった。ワンゼに着く少し前、バスの助手席に当たる部分に乗っていた人(スタッフだったらしい)が、客から白いカードを集め始めた。隣の青年の手元を盗み見ると、居民身分証と記されていた。これは中国人なら誰もが持っている身分証明カード(ID)である。なるほど、とうとう来たか。IDチェックの時間である。検問所に到着してから始まると思っていたが、それもまた僕らの思い込みだったようだ。

 

検問にあたり、これまで日本人の先輩方の取って来た作戦は単純である。ただひたすら以下の言葉を繰り返すのだ。

 

「没有」

 

検問はこれで通過できた、という人をブログでは何人も見つけることができる。いわゆるメイヨー作戦である。中国語を話せないM君も、この作戦を取ることにしていた。しかし僕はこの作戦に懐疑的であった。昔ならともかく外国人規制が強化された今、果たしてそんな安直な(バックパッカーの先輩方ごめんなさい)作戦が通用するのだろうか。幸い考える時間はバスの中でたっぷりあったし、多少なら普通話を話すことができた。熟慮の結果、僕は以下の言葉を追加することにした。

 

「我掉了」

 

想像してみてほしい。あなたが公安だったとしよう。あなたは乗客が中国人かどうかを確認するため、IDの提示を求める。そこにある家族連れのおじさんがいた。そのおじさんはうっかり者で、バスに乗る時には持っていたはずのIDをうっかりどこかに落としてしまった。しかし家族がラルンに行けるのにも関わらず、おじさんはうっかりIDを落としてしまったが故に、家族と離れ離れになって、10時間以上かけて一人で成都に戻らなければならない。

 

「うっかり忘れちゃったんだ!」

「なくしちゃったみたいなんだ!」

 

悲痛な顔でそう訴えるおじさんを目の前にして、公安たるあなたはどうするだろう。もし僕が公安なら、こう言っておじさんをクールに見逃すに違いない。

 

「わかったよ、今回は見逃してやるよ。せいぜい家族サービスするんだぜ。」

 

この作戦の肝は二つある。一つ目は、僕は中国人であると相手に信じ込ませることだ。多くの外国人はここで挫折するが、その点は僕には自信があった。何しろ、中国を回っていて、中国人に中国人だと確信されなかったことはただの一度もない。中国語の発音もそれほど酷くないのか、中国語で話しかければまず間違いなく僕は中国人だと思われる。相手が早口の中国語で話しかけて来て聞き取れず、「ごめんなさい僕実は日本人なんです、中国語わかりません」と言っても、冗談だと思って笑われてマシンガンチャイニーズを継続するか、あるいは「そんな見え透いた嘘をついてまで俺と話したくないのか」と解釈されて非常に不機嫌になる。嘘に聞こえるかもしれないが、本当の話である。色逹までのチケットをあっさり購入できたのも、僕の顔がいかにも中国人だったことに起因しているのかもしれない。だからこそ、僕の顔(と発音)を持ってすれば中国人だと思わせることなど容易いと思っていた。

 

二つ目は、相手に哀れだと思わせること。ああこいつは大事なIDをなくしてしまったんだな、それで引き返さざるを得なくなるなんて想定もしていなかったんだな、かわいそうだなと思わせれば勝ちだ。しかしこれは下手に出ることを意味しない。むしろ、自分は中国人なのだからIDカードなんてなくても色達に行けて然るべきであるというくらいの堂々とした態度が必要だ。毅然とした態度で、さりげなく不幸を演出する。バスに乗っていた10時間のうち起きている時間の大半は、そのシミュレーションに充てていたと言っても過言ではない。

 

しかし結論から言えば、その時間は全くもって無駄になった。

 

スタッフとのやりとり

バススタッフがIDカードを回収するために近づいてくる。僕の隣の青年がカードを渡す。スタッフが僕の方を向く。緊張で声が裏返らないように細心の注意を払いつつ、何度も発音練習したフレーズを口にする。

 

「我没有身份证,我掉了。」

 

スタッフは怪訝そうな顔をする。僕はにこやかに、しかし困ったという表情を作って繰り返す。

 

「我掉了。」

 

スタッフは怪訝そうな顔を崩さない。しかし彼は、次の客のカードに手を伸ばし、目の前から去っていった。通過した!僕は喜びを抑えるのに必死だった。ちょろい。なんだ簡単じゃないか。大したことないぞ公安!

 

しかしその喜びが続いたは長くてせいぜい30秒である。僕のすぐ後ろでスタッフの大声が鳴り響いた。その発言の対象は、僕の左斜め後ろに当たる席に座っていたM君である。彼は中国語を話せないため、先述のメイヨー作戦を用いたのだが、どうやらうまくいかなかったらしい。周囲の乗客も何事かと身を乗り出してM君を見る。スタッフがM君にがなりたてる。しかしM君は、一切口を開かない。僕は昔から彼のことを尊敬しているのだが、彼への尊敬の念を深くした。あれだけ言われてたら、僕なら口を開いてしまったかもしれない。しかし彼は、泰然と、無言を貫いた。

 

そうこうしているうちにバスは検問所に到着した。検問というと大規模なものを想像していたが、ワンゼの検問所は拍子抜けするほど簡素なものだった。川沿いの二車線道路を登ったところに簡素な白と黒の縞模様のゲートがあり、道の左側に公安のオフィスがあった。バスがその前で止められる。黒い服の公安が乗り込んでくると聞いたが、僕らの時はそうではなく、スタッフが集めたIDを公安に渡して、乗客は全員バスを降りてそのIDを公安から直接返してもらうという形式だった。乗客はぞろぞろと下車するが、IDを回収されていない僕は下車するわけにはいかない。どうしようかと思ってM君の方を見ると、M君は動けない状況にあった。M君は窓際の席に座っていたのだが、隣の席にスタッフが座り、M君をすごい形相で睨みつけている。

 

するとバスに公安が乗り込んできた。黒ずくめの格好で、銃を携帯していた。バスの運転手が呼んだようである。スタッフが公安に話しかける。内容は聞き取れなかったが、おそらく以下のような意味だろう。

 

「外国人がバスに乗り込んでいる!」

 

公安はM君に荷物をまとめてバスから降りろと指示する。戸惑う僕を指差して、スタッフが何か言う。これも憶測だが、おそらくこんな意味だ。

 

「こいつもIDを持っていなかった。こいつも怪しい!」

 

すると公安は僕にも、荷物をまとめて降りろと指示する。僕らとしてはここで降りるわけにはいかない。なんとか抵抗しようとする。しかし、思わぬ敵となったのは、IDチェックを終えて帰ってきた他の乗客だった。彼らは僕らがバスの中で怪しかったことを公安に告げ、僕らに降りろ降りろと言ってきた。彼らにしてみれば、面倒なやつらは降ろして早く出発したというのが本音だろう。結局バスの中全てを敵に回すことになり、僕らは引きずられるようにバスから降ろされた。

 

 

次回に続く。想像よりはるかに長くなってしまって申し訳ないです。