思記

よしなしごとをそこはかとなく

ラルンガルゴンパ旅行記②

前回の続き。「ラルンガルゴンパ旅行記①」を未読の方はぜひそちらからどうぞ。 

出発前夜

思いの外簡単にチケットを得られてホクホク顔の我々に現実を突きつけたのは、その日ドミトリーでルームメイトになった日本人のAさんである。Aさんはもう五年近くバックパッカー旅を続けていらっしゃるベテランである。その人はちょうどラルンから帰って来たところらしい。ぜひ生の体験談を聞こうと話しかけたところ、Aさんはにこやかにこう仰った。

 

「バスで直接ラルンは絶対無理w」「バスで直接行けたら勇者だよw」

 

ラルンにアクセスするために、まずはバスで近くの町である色達に向かうのが一般的だ。成都から色達に向かうまでの道で必ず通過するポイントに、ワンゼという場所がある。そこで公安が大規模に検問を実施している。外国人規制が強まるに従ってこの検問は年々厳しくなり、今や外国人がここを通過するのはほとんど無理だそうだ。事実Aさんも一度はここで公安に捕まり、ラルン行きを断念したことがあったという。

 

Aさんのとった対策は、ワンゼの南にある手前の町(名前は忘れた)でバスがトイレ休憩に入った時にバスからおり、そこから乗り合いタクシーなどを使って深夜や早朝に通過するというものだ。現地の人は日本人がラルンに行きたいこと、そしてそのためならある程度の出費は厭わないことを知っているので、日本人をターゲットにした乗り合いタクシーがたくさんあるという。乗り合いタクシーの運転手と交渉し、深夜か早朝に公安のゲートを通過してもらえれば、少なくともバスで馬鹿正直に特攻するよりも成功率が高いそうだ。何としてもラルンに行きたい僕らは、その作戦を踏襲することにした。色達まで一本で行ければベストだが、実際に数日前に行って来た人がそういうなら仕方がない。

 

その日の夜のことは今でも思い出す。この国において力のない外国人が、国家権力に逆らおうとしている。大袈裟な表現ではあるかもしれないが、そこにあるのはヒロイズム的陶酔ではなく恐怖だった。その恐怖は、ラルンに行けないかもしれないという事実を受け入れさせつつあった。今回の旅は、自分一人ならまだしも、M君を巻き込んでしまっている。もちろんそれほどひどいことにはならないと頭ではわかっていても、胸騒ぎがそれで収まる訳ではない。無事に帰って来られることを祈りながら、僕は眠りについた。

 

バスに揺られて

 翌朝、朝の4時に起床してタクシーで茶店子バスターミナルに向かう。相当早い時間の起床だったにも関わらずすんなり起床できたのは、つまりは眠りの浅さの裏返しだ。思い返せばこの日から成都に帰ってくるまでの数日間は、心が休まる暇がなかった。

 

バスターミナルに到着し、すぐにバスに乗り込む。バスに乗り込む際にも身分確認があったが、ここはパスポートを出しても問題なく通過できた。途中で下車する人がいるからだろうか、それとも愚かな日本人をわざわざ救済する理由もないと思われたのだろうか。いずれにせよありがたかった。

 

いよいよバスに乗る。僕とM君は以前の取り決め通り、バスの中では一切会話しなかった。外国人であると周囲の人間にバレるとどうなるかわからないからである。どうしても、という場合にはスマホのメモに文字を打って、それを渡して意思疎通をした。

 

バスは成都を出て数時間は高速道路を進んだが、ほどなくして山道を進み始めた。道幅は狭く、あるところでは落石や陥没が放置され、またあるところではガードレールが吹っ飛んでいた。おそらくガードレールを吹っ飛ばした車は、そのまま川に突っ込んだのだろう。このような危険極まりない道なのだが、交通量は意外と多い。これは現在東チベットに向けた高速道路のような太い道を中国政府が建設中だからである。コンクリートの大きな柱を立て、そこに鉄筋の骨組みを作り、高速道路が作られている。我々の通った山道は、その道の下を縫うように進むものだった。後から聞いた話だが、中国政府は東チベットへの高速道路開発に注力しているため、山道の補修はもうしないつもりであるらしい。高速道路が完成すれば、少なくともバスのように山道に不釣り合いなサイズの車はもうスリル満点の山道を進まなくてよくなるそうだ。まあ、完成にはどう考えてもまだまだ時間がかかりそうなので、当面は山道が使われるだろう。事故が起きないことを祈るのみである。

 

成都から途中下車する予定の町までは10時間以上ある。当初は不安と緊張で冴えていた目も長くは持たず、出発から数時間で眠りにつき、その後は寝たり起きたりを繰り返した。

 

まさかのチャレンジ

出発から9時間程度が経ったトイレ休憩。予定では、ワンゼの手前の町に着く頃であり、そろそろ下車する準備をしなければならない。ここで、百度マップを確認したM君から衝撃的な事実を聞かされることになる。

 

「どうやら道が聞いていた話と違う。このままではワンゼに直接ついてしまう。」

 

寝ぼけた頭を叩き起こすには十分な情報だった。ここで、我々の勘違いの根源である、その周辺の道路状況について簡単に説明したい。頭の中に大きなYを思い浮かべてもらうとわかりやすい。左上、右上、下の三本の直線がそれぞれ道路である。Yの中心の線が集まる点がワンゼで、左上に向かう直線が色逹に向かう道路だ。

 

問題はここからだ。成都からYに向かう道筋は、右上の道と下の道のどちらを用いるかで二通りある。成都から色逹への道順を百度マップで調べた際、通過するはずの道は下の道であり、そしてその下の道の途中に我々が途中下車するはずの町があった。しかしこのバスはどうやら右上の道からワンゼに向かうバスであったらしい。バスによって通過するルートが異なるのは当然だが、そのことに全く思い至らなかった。仮に思い至ったとしても、確認するのはかなり難しかっただろうとは思うが。

 

M君とスマホのメモをやりとりによる緊急作戦会議が開催された。5分間に及ぶ討議の結果、結論が出た。

 

「強行突破で行こう」

 

作戦会議というのは本来複数の選択肢から最善を選択する会議である。その定義に則るならこれは作戦会議ではない。そもそも途中下車できる町がない時点で、取ることのできる手段は現時点でそれしかないのだ。お互いの腹を決めるための時間がこの5分だった。

 

作戦会議をしたトイレ休憩の場所からワンゼまではだいたい1時間程度であった。図らずも「勇者」になってしまった僕らにできたのは、二度目の奇跡を祈ること、ただそれだけだった。

 

次回に続く。