思記

よしなしごとをそこはかとなく

注目する責任について

母校との思わぬ出会い

先日、何の気なしにツイッターを見ていたら、母校の校長先生が書いた論文がシェアされてきた。「謂れのない圧力の中で」と題されたこの論文はツイッター上で爆発的にシェアされた。特に知識人層を中心に、校長の毅然とした対応を賞賛する声が多かったように思う。しかし聞いた話によれば、この文章は随分前に校長先生が個人名で同人誌に書いたものであり、現在はこのような嫌がらせは沈静化しているという。ではなぜ、今になって、これほど爆発的にこの文章がシェアされたのか。

 

黒塗りと付箋

少し調べてみると、どうやら2017年7月30日に放送された「MBSドキュメンタリー映像'17 教育と愛国~いま教科書で何が起きているのか」が事の発端であるようだ。以下、MBSドキュメンタリー'17公式ページより引用。

「善悪の判断」・「礼儀」・「国や郷土を愛する態度」…20以上の徳目がずらりと並びます。
それらを学ぶための読み物、それが「道徳」の教科書です。来年度から小学校で導入される「特別の教科 道徳」は、これからの時代の教育の要とされています。2020年度に全面実施される新教育課程には「道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行われる」とあり、まさに戦後教育の大転換といえます。
しかし、教育現場では賛否が渦巻いています。その背後では教科書をめぐって、文部科学省教科書検定や採択制度が、政治的介入を招く余地があるとの懸念の声があがっています。これまで歴史の教科書では、過去に何度もその記述をめぐり激しい議論が起きてきました。「もう二度と教科書は書きたくない」と話す学者がいます。「慰安婦」の記述をきっかけに教科書会社が倒産することになった過去の記憶が、いまも生々しく甦ると学者は重い口を開きます。一方、いまの検定制度のもとでの教科書づくりは、何を書き何を書かないか、まさに「忖度の世界」と嘆く編集者もいます。さらに学校現場では、特定の教科書を攻撃するハガキが殺到するような異常事態も起きています。
教育の根幹に存在する教科書。歴史や道徳の教科書を取り巻く出来事から、国家と教育の関係の変化が見えてくるのではないだろうか。教科書でいま何が起きているのか。これまで表面に出ることがなかった「教科書をめぐる攻防」を通して、この国の教育の未来を考えます。

この番組ではいくつかの論点が取り上げられていたが、この話題に関係のありそうな範囲で概略を示す。まず、戦時中日本軍が関わった問題として慰安婦を取り上げた結果、保守派から圧力がかかり、倒産に追い込まれた日本書籍という教科書会社が紹介された。その後、暗記ではなく考える歴史を教えることを目指す教員が集い編集された学び舎の教科書が取り上げられる。日本書籍の倒産以降、自粛の雰囲気があった中で、中学校の歴史教科書から消えていた慰安婦の記述を十数年振りに復活させたのがこの教科書だ。学び舎の教科書は難関私立校とされるところで特に導入されている。

問題はここからである。取材部は学び舎採用の学校に取材を申し入れたが、全ての学校から取材を断られた。その理由は学校に送られてくる大量の抗議葉書である。その内容は、匿名でOBを名乗り、反日教育をやめさせるよう求めるものだ。番組はその送り主を取材したのち、ある難関私立高校の校長がこの一件をまとめた教員向けの論文を紹介した。この論文こそが、まさに先ほどの「謂れのない圧力の中で」である。ただし、葉書に書かれた住所を黒塗りで潰し、論文の個人名を付箋で隠すなど、この番組内では一貫して個人名を特定されないような配慮がなされていた。学校名や個人名が特定されることで、この嫌がらせが再燃し、学校に迷惑がかかることに配慮してのものだろう。各校が取材を拒否したのも、おそらく同様の理由である。

 

無駄になった配慮

しかし結果的にこの配慮は無駄になった。この番組が放送された数日後、ジャーナリストの津田大介氏が「灘校の校長の声明文」として先述の論文を取り上げると、それらは瞬く間に拡散された。(タイムラインを見ていた印象では、津田氏がまず先鞭をつけ、その後インテリ層を中心とした人々が次々にシェアしたように思えたが、もしさらなる発信源が別にあれば指摘していただきたい。)

 津田氏のツイートは、あたかも灘校の校長が、現状に危機感を感じ、灘校としての公式声明を発表したかのように思える。しかし、それはミスリーディングと言わざるを得ない。この論文は教員向け同人誌に個人名で投稿された、いわば内部向けのものであり、社会にメッセージが拡散することを望む「声明文」などでは決してない。この論文が番組に取り上げられた際に執筆者と所属校が伏せられていたことからもわかるように、この論文は匿名の発信としての公開が希望されているものだった。それを「灘校の校長」の「声明文」であると解釈した津田氏の引用は、校長のその意図に一部反するものである。これについては、津田氏は後に訂正のツイートをしている。

もちろん、「声明文」だろうが「個人としての寄稿」だろうが、「文章の価値や、投げかけている問題の重さは変わらない」のは疑いがない。変わるのは、その情報の扱い方である。声明文でない以上、この論文が拡散されることによる影響)への対応を全て灘校に放り投げることはできない。これは私見だが、番組内容などを検討してみると、灘校は嫌がらせの再燃などの悪影響を危惧して、実名での取材を拒否したのだろう。津田氏のツイートは、灘校の意図を結果として全て無駄にするものとなってしまった。

 

注目する責任について

しかしこれを全て津田氏に帰責するのはいささか乱暴だ。番組内で取り上げられた論文が、誰もがアクセス可能な状態にあったこと、そして番組の内容を踏まえれば、誰もが灘校についてのことだとわかってしまうことなど、不運な要素がいくつかあったことは否めない。しかし「少し調べればわかる」という状態では、情報は拡散しない。それらをわかりやすい形で提示し、リツイートボタン一つで広げられる状態になって初めて情報は拡散する。世の中に広げるべき価値について、アクセス可能な形で発信する。本来ジャーナリズムとはそういうものである。だから今回も、津田氏は、ジャーナリストとして、自らの職務を全うしただけとも言える。事実、津田氏の問題提起によって多くの人がこの問題に支持を表明した。それによって勇気付けられた人もいるだろう。社会的な価値は、間違いなくあった。しかしそれを根拠に今回の拡散を正当化するのも、また乱暴である。

社会的な問題に向き合う上で、最も尊重されるべきは、その問題に悩まされる当事者である。今回のように、問題が問題として可視化され拡散されることでその問題が再燃しうるという場合においては、情報拡散は問題解決と逆行する可能性さえある。津田氏を含めて、この問題を拡散し意見を表明した全ての人は、善意と誠実さを持っていることは疑いない。それについては一人のOBとして心からの感謝を申し上げたい。しかし、まさにその善意と誠実さによって、苦しめられうる現場があることを想像した人が果たして何名いただろうか。自分の行為が当事者の問題解決と結びついていないのなら、それはたとえ善意であったとしても、肯定されるべきではないと僕は考える。善意と誠実さのある人間にこそ、その善意がどのような結果に繋がるか、まで思考し続けることを求めたい。それこそが本当の意味での「善」であり「誠実」ではないだろうか。

一人一人が発信者となるこの時代において、注目する責任についての想像力の必要性を痛感した一件だった。

「正しい自分史」という暴力

「留学どうだった?」

先日、心から尊敬する友人の一人と語らう機会があった。その帰り際に、印象的な言葉があった。

僕は数ヶ月前に留学を終えたばかりである。だから帰国後の会話は多くの場合、留学について僕が聞かれるという形式になる。しかしその会での話題は専ら相手の現状であり、僕のことについて話す機会はほとんどなかった。それについて冗談半分で言及した時、友人は以下の趣旨のようなことを言った。

 

「留学はどうだった?と聞くことは留学という体験を言語化・固定化させるということ、すなわちそうでない可能性を排除するものであり、時としてそれは暴力的なのではないか。」

 

友人と別れた後、電車の中で、これと似たようなことを考えた時があったのを思い出した。就職活動やインターンの選考におけるエントリーシート(ES)である(ここでいうESとは、就職活動において、企業に自分をアピールするための書類である)。職歴のない新卒学生にとっての一番の力の入れどころは、その中の自己PRだ。「あなたの強みはなんですか」「学生時代最も力を入れたことはなんですか」「あなたが直面した困難はなんですか、それをどう乗り越えましたか」これらの質問に既に食傷気味の読者もいることだろう。あるいは学生時代を思い出して懐かしむ方もいるかもしれない。

 

結論から言えば、僕はESが嫌いだ。より具体的に言えば、ESを書いている時の自分が嫌いだ。ESを書く時、僕は、あたかもその語りが自分にとっての絶対のように装わなければならない。どのように書いても生じうる違和感を黙殺し、相手企業にとっての最良の人材を歴史的に演じなければならない。まだ自分は面接というものをそれほど経験したことがないが、聞いた話では面接はESに基づいて実施されるようである。考えただけで頭が痛い。

 

正しい歴史と慰安婦問題

そんな時、ふと思い出したのが、随分昔に読んだ『ナショナリズムジェンダー 新版』(上野千鶴子)に掲載されている論文「記憶の政治学」における一節である。上野は本論文において、「慰安婦」問題をめぐって、ジェンダー史が提起した方法論的な課題を論じている。上野の主張自体を論じるのはこのブログの目的ではない。少々乱暴かもしれないが、上記の話題に対する補助線として、上野の指摘する「実証史学」と学問の「客観性・中立性」神話についてこのブログで引用したい。

 

上野は、今日(1997年)の「慰安婦」をめぐる問題は、「強制連行はあったか否か」「日本軍の関与を証明する公文書は存在するか否か」という「実証性」の水準で争われているとする。歴史修正主義に基づく「自由主義史観」の支持者は慰安婦の強制連行を示す公文書がないことを根拠に慰安婦問題の存在を否定しており、それに対して良心的な歴史家は「歴史の真実を歪めるな」と反論する。ここで、「歴史的事実というものが誰が見ても寸分違わないすがたで、客観的実在として存在しているかのような史観」を前提としており、上野は「事実」と「現実」を区別することでこの前提を批判する。慰安婦問題にあるのは単一の「事実」(=客観的実在としての歴史)ではなく、日本軍による「慰安婦制度」と被害女性による「強姦」というふたつの「現実」である。その上で、上野はこう主張する。

 

複数の「現実」の間の落差がどれだけ大きくても、どちらか一方が正しく、他方が間違っているというわけではない。ただし権力関係が非対称なところでは、強者の「現実」が支配的な現実になって、少数者に状況の定義を強制する。それに逆らって支配的な現実を覆すような「もうひとつの現実」を生み出すのは、弱者にとってそれ自体が闘いであり、支配的な現実によって否認された自己を取り戻す実践である。(pp.177)

 

企業にとって正しい自分史

ここで、本題に回帰する。人生史は、社会史や政治史以上に「事実」ではなく「現実」によって語られるものである。誰が見ても寸分違わない客観的な自己など存在しない。自分と他人で当然解釈は異なりうるし、自分の中でも、経験をどう解釈するかで多様な「現実」が生まれる。自己認識とは、そのような多様な「現実」の絶え間なき闘争において一時的に発生した動的な平衡状態に過ぎない。

 

その平衡状態に介入するのがESである。ESには書くべきエピソードや、個別の企業にウケのいい特徴が存在する。つまり、それらに相性の良い「現実」が強者の現実として支配的になり、弱者となる「現実」を圧殺する。就職活動では一貫性が重視されると聞く。しかしここでいう一貫性とは内的に醸成されたものではなく、あくまでも志望する企業から外的に注入されるものである。注入された「企業にとって望ましい存在として一貫性を持つべし」という圧力は、多様な現実の平衡を破壊し、単一の「現実」で自分の全てを語り切らんとする。しかしそれが無理だからこそ、我々の中では多様な現実同士の闘争があるのだ。選ぶ側と選ばれる側の権力的な非対称により、学生の自己認識は権力側に勝手に最適化される。結果として、就活生は、権力にとって「正しい自分史」を持った人間に自らを勝手に再教育していく。統治システムとして、これほど優れたものはなかなか存在しないのではないか。

 

就職後に鬱になる人や過労死する人が社会問題になり始めてから随分経つように思う。原因の一つに間違いなく制度はあるだろう。しかし一方で、このような選考プロセス自体が人に与える影響も考慮されるべきではないだろうか。企業にとって最適化した自己認識の不完全性が引き起こす自己矛盾に耐えられなくなれば鬱になるかもしれないし、自己認識を企業と同一化させ過ぎている人ばかりの集団は、過労死のリスクが高い集団である。ここについての推論は厳密ではないが、働きかけそれ自体の影響の有無、そしてその望ましさについての検討も、あっても良いのではなかろうか。

ラルンガルゴンパ旅行記⑥

前回の続きです。未読の方はまず、以下の記事をお読みください。

「ラルンガルゴンパ旅行記①」

「ラルンガルゴンパ旅行記②」

「ラルンガルゴンパ旅行記③」

「ラルンガルゴンパ旅行記④」

「ラルンガルゴンパ旅行記⑤」

これがこのシリーズの最終話になると思います。

 

そして辿り着く

しかし結果から言えば、緊張の糸を巻き直す必要があったかどうかは少し疑問である。というのも、「ワンゼを過ぎればどうにかなる」というAさんの言葉通り、ワンゼ以降はひたすら山道と草原をひた走るだけの道のりだったからだ。既に標高は3000m近くあり、周囲にあるのは背の低い木々だけで、ひたすら見晴らしの良い草原と禿山が続く。すれ違う公安のパトカーに怯えつつも、少しずつ景色を楽しむ余裕が生まれてきた。そうこうしているうちに、タクシーはラルンの入り口に辿り着く。当初は色達を目指していたが、色逹によって余計なリスクを取るよりも、直接五明に行ってしまう方がいいと判断したため、途中で行き先を変更した。とはいえワンゼから色逹に行く道中にラルンがあるので、変更というより途中下車という方が正しいかもしれない。

 

タクシーを降りた僕らの目に飛び込んできたのは、またしても検問だった。五明に入るための、最後の検問。しかし僕らはもう慌てない。最後の検問には、実はかなり開けっぴろげな抜け道があるのだ。検問所向かって左の道には駐車場があり、ここを登って行くと、ラルンの中心部までに行くバスが出ている。これは僧侶が用いるバスだが、一般の観光客も乗ることができる。これに乗って山を登れば、検問を通らずに済むのだ。これからラルンに行く旅行者は参考にしてほしい。わからない場合は、美しい臙脂色の布を纏った僧侶についていけば良い。

 

緩やかな上り坂をバスは進む。その途中に目にしたのは、おびただしい数の重機だ。それらの重機は伝統的な家を壊し、コンクリートのアパートのようなものを建てていた。中国政府は外国人のラルン立入を禁止し、その最中にラルンを開発しようとしているのだろう。

 

滑稽なのは、そのアパートが臙脂色に塗られていたことだ。ラルンは臙脂色の建物が山の斜面いっぱいに広がっているため、絶景として隠れた観光地となっている。おそらく将来的には、ここを観光地として売り出すつもりなのかもしれない。もちろんそれはありのままのラルンではなく、中国政府によって開発され、骨抜きにされ、見世物となったラルンなのは間違いない。

 

僕の脳内に渦巻くそれらの複雑な気持ちは、次の瞬間目に飛び込んできた景色で吹っ飛んだ。バスが、とうとうラルンの中心部に辿り着いたのだ。周囲の高い山々の斜面に、びっしりと並ぶ臙脂色の家屋。そしてその中心で光り輝く黄金の寺院。言葉を尽くせば尽くすほど、あの美しさを言葉にしえない自分に腹がたつ。そんな景色だった。僕らは辿り着いた。チベットの人々が、僕らに見せたかったもの。一時は諦めていた場所。ついに僕らは、ここに来たのだ。その瞬間だけ、中国とか公安とか、そんな小難しいことは全て忘れていた。臙脂色の秘境の中で僕は喜びを噛み締めていた。

 

おわりに

 

さて、これ以降のラルンで見たもの聞いたことを全て話すつもりはない。ラルンの景色の美しさや街並み、寺院の様子や鳥葬などについては、他の旅行ブログが、たくさんの写真とともに僕よりも丁寧に書いてくれることだろう。ここでは、印象的であったことだけをいくつか、簡潔に記しておきたい。

 

まず、ラルンの開発について。一言で言えば、想像以上に進んでいた。街のいたるところで家屋や寺院が壊されており、バスで見たのと同じようなコンクリートの建物に置き換えられていた。成都からラルンまでの道で高速道路を建設していたことから考えても、ラルンは将来的に解放されるのだろう。しかしそれも先述の通り、決して今のラルンではない。成都で出会ったAさんは「今がラルンを見る最後のチャンス。いや、もう遅いかもしれない」と言っていたが、本当にその通りだ。中国政府は、国家の安定と国富の増大のため、チベットを今日も壊し続けているのだろう。

 

そして、僧侶との会話について。僕らはラルンに到着後、寺院のそばの食堂で昼食をとった。お世辞にも美味しいとは言えない味の薄い焼き飯を食べた後、僕らはスマホのメモのテキストで、鳥葬について相談した。日本人だとバレないように、僕らはラルンでは二人きりの時以外は声を発することさえしなかった。

 

鳥葬とは、チベット仏教の葬儀の一種である。チベット仏教では、遺体は魂のない抜け殻に過ぎないと考える。その抜け殻たる肉体を天に送るために、ハゲワシに食べさせるのが鳥葬である。中国では天葬と呼ばれている。チベット仏教では一般人の葬儀として最も一般的な方法だそうだ。ラルンの近くで鳥葬が見られる場所があると聞いたが、なかなか手がかりを見つけることができなかった。

 

すると隣の席に若い僧侶が二人やって来た。やはり現地のことは現地の人に聞くのがベストだろう、と判断し、彼らに鳥葬について聞いてみた。気のいい彼らは詳しく教えてくれた。なんでも、鳥葬を見るためには、一度入り口まで降りて、そこから乗合バスで別の山まで行く必要があるらしい。まだ少し時間があったので、彼らと色々なことを話した。

 

「君らどこから来たの?多分中国人じゃないよね?」

 

 

彼らは柔和な笑みを崩さないまま、こう問いかけて来た。ラルンの中には公安はほとんどいないし、彼らはチベット人である。わざわざ僕らをひっ捕らえて公安に突き出すことはしないだろう。そう判断し、僕は正直に、自分が日本人であることを明かした。

 

すると彼らは、柔和な笑みを満面の笑みに変えてこう言った。

 

「日本人か!よく来たな!ラルンへようこそ!」

 

そこから話はさらに盛り上がった。道中での出来事を聞かせて欲しいと言われ、請われるままに全てを僕は話した。バスの中でのこと、公安のこと、宿のおばさんのこと、タクシーのこと。僕らの共通言語は中国語だったので、翻訳アプリなどを介しつつ、身振り手振りでコミュニケーションをとった。ここに来るまでに、チベットの人にお世話になった。そのことに感謝したいと彼らに伝えると、彼らはアプリにこう打ち込んだ。

 

「我们西藏人很喜欢你们日本人。我们不像汉族人那样讨厌你们」

(僕らチベット人は君ら日本人が大好きなんだ。僕らは君たちを嫌う漢民族とは違う。)

 

日本は中国と同じ大国であるにも関わらず、日本は自由な国だと聞いている。中国政府がチベットの人々の暮らしを破壊している今、中国のことが好きなチベット人は多くない。逆に、中国に支配されることなくいち早く自由で民主的な先進国となった日本を僕らはリスペクトしている。チベット人として、日本から来た友人を心から歓迎したい。君たちをラルンに連れて来てくれた宿屋のおばさんやタクシーのおじさんも、きっと僕らと同じ気持ちだったと思う。日本人が好きだし、日本人に僕らの今を知って欲しい。だから、日本に帰ったら、一人でも多くの人にチベットで見たものや聞いたものについて伝えてくれないだろうか。それが僕らにとって、何よりの恩返しになる。

 

多少の不正確さはあるかもしれないが、彼らの言葉を要約すると、このような内容だったと記憶している。宿屋のおばさんも、タクシーのおじさんも、そして僧侶のお兄さんも、日本人である僕をリスペクトしてくれているし、また期待している。権力に面と向かって抵抗できなくても、このような小さな小さな面従腹背を続けることで、きっと何かが少しずつ変わるんじゃないかと。僕は、その祈りを託された一人なのだ。

 

若い僧侶たちはその後僕らをタクシー乗り場まで案内してくれた。乗合タクシーに揺られながら、僕は決意した。ブログをまた始めよう。書かねばならぬことがこの世界に溢れている。たとえ拙かろうとも、彼らの祈りを、僕は受け止めたい。書きたいという気持ちが、抑えられなくなった。それから一ヶ月、僕はラルンについての文章を書き終えようとしている。

 

臙脂色の秘境に生きる、勇気ある市民の小さな叛逆。図らずも僕はその当事者になった。これもまた何かの巡り合わせなのかもしれない。いつかまたラルンを訪れた時、お世話になった名も知らぬチベットの人々に胸を張って報告できるような人生を歩みたいと僕は強く思う。この気持ちをずっと持ち続けていたいと思うし、持ち続けられたなら、きっと僕は自分の人生を誇ることができるだろう。チベットの山奥にあったのは、息を飲む絶景、そして、青臭い信念の原型だった。

 

おしまい。

ラルンガルゴンパ旅行記⑤

前回の続きです。未読の方はまず、以下の記事をお読みください。

「ラルンガルゴンパ旅行記①」

「ラルンガルゴンパ旅行記②」

「ラルンガルゴンパ旅行記③」

「ラルンガルゴンパ旅行記④」

こんなに長くなるとは…

 

急展開

2017年7月3日。起きたのは6時半を少し過ぎたあたりだったと思う。寝て起きたら観音菩薩が僕らをラルンに連れてってくれていると思ってたのに、なんて軽口を叩きながら準備をし、宿を出て、バスを待つ。道沿いで何か食べようと思ったが、朝はどの店もしまっていた。バスの休憩場所で何か調達しなきゃな、昨日パンを一つ残しておいてよかったな、そういえば行きのバスで隣の人が食べてた桃はうまそうだったな…こんな危機感のないことばかりを考えられるのは数十時間ぶりだった。早くバスに乗って、成都に帰って、パンダでも見に行こう。東チベットにある体を離れて、頭は一足先に公安のいない成都に到着していた。

 

7時半の少し前、例の宿のおばさんが僕らを迎えに来る。この国では物事が定刻前に進むのは珍しい。もしかしたらおばさんは公安から依頼された僕らの監視役なのかもしれない。きっとバスに乗り込む所まで確認して、公安に確認するんだろうな。そんなことをぼんやり思いながら、宿を出る。するとそこに待っていたのは、ここに来る時に乗ってきた大きなバスではなく、小さなタクシーだった。

 

僕はげんなりした。勘弁してくれ。ここまで来る道はバスであってもかなり揺れる悪路である。ましてやこんな小さなタクシーだったら、どれほど揺れることになるのか。これは車内で寝るどころじゃないかもしれない。それに個人タクシーだったら成都までいくらかかるかわからない。公安め、最後に嫌がらせかよ。あいつら昨日は同じバスで帰るって言ってたじゃないか…僕の心は、公安に対するイライラが支配しようとしていた。次の瞬間のおばさんの言葉がすぐには理解できなかったのは、きっとそのせいだ。

 

チュースァダァ!」

「…は?」

チュー、スァ、ダァ!!」

 

チュースァダァ、という言葉が頭の中で踊る。それは数秒の時間をかけて、僕の脳内でゆっくり簡体字と接続する。チュースァダァ、去色达。つまり、色逹に行け。こうおばさんは言っている。相変わらずにこりともせず、しかし昨日とは違う、少し熱を帯びた言葉で僕らに行けと言っている。

 

突然の展開に頭がついて行かなかった。数秒の思考停止を経て、一気に頭を再起動する。どうやらおばさんは、僕らを成都に送り返すのではなく、色逹に連れて行ってやろうとしているらしい。そのためバスが来る少し前にタクシーを呼んでくれたようだ。よく考えてみればタクシーは検問所の方を向いている。運転手はチベット系の顔をしている。ここに至ってようやく理解した。もしかして、おばさんが用意してくれたタクシーは、僕らをラルンに連れて行ってくれるのではないか?

 

M君もほぼ同時に理解したらしい。しかしこれは僕らにとってあまりに思いがけないことだったため、喜びはまだはるか後方にいた。相変わらず無愛想な態度を貫くおばさんに急かされるままに荷物を乗せ、車に乗り込み、挨拶もそこそこにタクシーは出発する。おばさんは宿の方向に帰っていく。その時、おばさんの白い歯がちらりと見えたような気もしたが、それは気のせいかもしれない。

 

通過

タクシーにはチベット仏教の高僧の写真や仏具らしきものがたくさん飾られていた。この人はおそらく敬虔なチベット仏教徒なのだろう。そんなことを思っている間にタクシーは、検問所にまっすぐ向かっていた。ああ、これは本当にラルンに向かうつもりだ。今からでもおばさんにありがとうと言いたい。まだ間に合う。叫べばきっと聞こえる。そう思って後ろを振り返ろうとした瞬間、ドライバーから指示が飛ぶ。

 

「これから公安のゲートを通過する。外から目視できない所まで頭を下げろ。」

 

慌てて僕は、膝に胸を押し付けるような体勢になる。頭をこれでもかと下げて、じっと目をつぶった。その後どれくらいの時間がたっただろうか。今度は少し優しい声で、ドライバーが僕らに告げる。

 

「頭をあげていいよ。もう大丈夫だ。」

 

ゆっくりと頭をあげる。ゲートをくぐるかくぐらないかで、見える景色が大きく変わるはずがない。しかし僕には、空気の色さえも数分前と違うような気がした。とうとう来たのだ。外国人立入禁止区域である色逹郡に、僕らは入れたのである。最大の関門を、想像さえもしていない方法で通過したのだ。予想外のことこそ旅の醍醐味、とはよくいう言葉ではあるが、本当に予想外のことが起こった時、それも、諦めかけていた場所へのアクセスが、全て他力によって可能になった時のあのふわふわした感覚はきっと生涯忘れないだろう。

 

宿のおばさん、そしてタクシードライバーのおじさんがなぜここまでリスクをとってくれたのかはよくわからない。公安のすぐ近くで商売をするおばさんにとって、公安との関係性は何よりも重要なはずだ。しかしおばさんは、見ず知らずで言葉も通じない日本人二人を、ラルンに連れていくという決断をした。タクシードライバーのおじさんも、僕らを後部座席に隠して、「密入国」の手引きをした。

 

この地で暮らす人々にとって、公安に目をつけられるということがどれほど大きなことかは僕らには想像もできない。成都でさえ、色逹行きのチケットを探していた時に、僕らに腫れ物に触るような態度をとった人もいた。それは彼らの人間性の問題ではなく、きっと公安を刺激するようなことを手引きしたくないというリスク回避の気持ちがあったのだろう。バスの中で僕らを日本人だと口々に告発した乗客も、きっと似たような心理だったに違いない。むき出しの権力が生活を脅かしうる存在としてそばにある時、きっと大多数の人は必然的に権力に従順になるのだ。旅行中そのような現場に立ち会うたびに、それを外国人という立場から批判することは決してするまいと思っていたし、彼らの判断を尊重しようと思っていた。だからこそ、宿のおばさんとタクシーのおじさんの行動には驚かされた。信じられなかった。特に宿のおばさんは、公安に僕らを任せられるくらい信頼されている存在である。しかし彼らは権力のすぐそばで、一見権力に従順なように見せかけつつ、影で小さな抵抗を続けていた。その面従腹背に、僕らは救われたのだ。それがなぜかを知るのはここから半日ほど先のことである。

 

僕は急いで一度緩めた緊張の糸を張り直す。ここからまた、公安とのかくれんぼが始まるのだ。それと同時に、義務感のようなものがむくむくと湧いてきた。理由はわからないが、宿のおばさんやタクシーのおじさんは、賄賂も何もないのに、なぜか僕らにラルンを見せようとリスクをとってくれている。その答えは、きっとラルンにあるに違いない。ラルンに辿り着けなければ、彼らの思いまで無駄にしてしまう。彼らの行為に応えるために、僕はラルンをこの目で見ねばならない。その思いに至った瞬間、ラルンは僕にとって「行きたい場所」から「行かねばならぬ場所」になった。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

 

ラルンガルゴンパ旅行記④

前回の続きです。未読の方は以下の記事からまずはお読みください。

「ラルンガルゴンパ旅行記①」

「ラルンガルゴンパ旅行記②」

「ラルンガルゴンパ旅行記③」

 

検問室にて

道沿いの検問室には10名弱の公安がいた。彼らは皆黒ずくめの服装をしており、ぎょろりとした目で僕らを睨む。口々に何かを叫ぶ。そのほとんどは聞き取れない。この時点で、彼らは僕らが中国人ではないことをほとんど確信していたように思う。しかし彼らも中国語以外を話せないようだ。

 

僕らは、相手の言葉がわからないことに漬け込んで、だらだらとパスポートの提示を渋っていた。と言っても勝算があったわけではない。むしろ逆である。僕としては、このまま粘ればあわよくば、という希望はこの段階でほとんど捨て去っていた。そもそも足がない。僕らを降ろしたバスは既に影も形も見えない。万が一この検問を何かの拍子に通過できたとする。そのあとはどうする?ここからバスで二時間以上ある場所に、歩いて行くことなどできるはずもない。既に夕方で、太陽光線は山のてっぺんをかすめようとしている。僕らの粘りは、その先に何かがあるものではない。ただ単に、こんなにも簡単に、あっさりと、想像していた最悪のケースが目の前に展開されるリアルを受け入れるだけの時間が欲しかっただけなのだ。

 

 とうとう僕らはパスポートを出す。公安はひったくるようにパスポートを取ると、僕らのパスポート番号と顔写真を記録し始めた。僕はぼんやりした頭で昨晩のAさんの話を思い出す。そういえば捕まるとパスポートの記録に取られてブラックリストに載るらしい。そうか今まさにそのプロセスなのか。しかしその行為のリアリティを理解するには、当時の僕の頭は元気がなさすぎた。恐怖や不安もまた、感じるのにエネルギーがいるのだ。

 

パスポートを返却されると、公安がまた何か中国語でまくし立てる。しかし今度の彼らの口調は、先ほどの糾弾するようなそれとは少し異なり、何かを指示するようなものだった。しかし僕らは聞き取れない。すると公安の一人が気を利かせて、旅行者の女性を連れてきた。その女性は香港人らしく、英語が話せた。僕らはその女性に通訳をお願いし、公安と初めてまともな会話をした。

 

内容を要約するとこんな感じである。

「ここは中国政府の方針で外国人は入れない。しかしここに放置するわけにもいかない。今回は1回目だし、お前らはどうやらこのことを知らなかったようなので(著者注: アピールの甲斐があったというものだ)、我々はお前らを成都に送り返すことにする。しかしもう夕方なので交通手段がない。なので我々が手配する近くの宿に一泊して、明日の早朝にこれも我々が手配するバスに乗って帰れ。値段はそれなりに安いから充分支払えるだろう。了承したらこれからお前らをパトカーで宿まで送る。」

 

想像よりもずっと優しい。僕の想像では、それこそパトカーにぶち込まれて有無を言わせず成都まで送り返されるか、途方も無い罰金を取られるか、いずれにせよ帰るまでのプロセスの全てを向こうが手配してくれるとは想像していなかった。まあ公安からすれば、ラルンに行きたい外国人を検問付近で解き放てば何をするかわからない。そしてこれは後ほど実感したことだが、そもそも色達から外国人を締め出してほとんど強制的な開発をするのは中国としては後ろ暗いことである。ここで苛烈に取り締まって反感を買うよりも、穏便に帰っていただきたい。どこまで当たっているかどうかは定かでは無いが、IDチェックの前後での態度の若干の変化から、そのような公安の意図を感じた。

 

しかしいくら優しいとはいえ、僕らに選択肢はない。そもそも拒否権がないし、仮に拒否できたとしてもこんな山の中ではどうしようもない。僕らはパトカーに乗り込んだ。外国でパトカーに乗るのは人生で2回目だ。1回目はキリマンジャロで、高山病で死にかけた僕を急いで下山させるためにパトカーが使われた。しかし今回は、犯罪者とは言わなくても、ルールを犯そうとしたものとして、ある意味本来の意味に忠実な存在として、僕はパトカーに乗った。

 

宿へ

 宿は検問所から川沿いの一本道を降って、せいぜい車で5分ほどの場所にあった。一体どこまでパトカーで運ばれるのかが不安だった僕としては拍子抜けだった。公安は道沿いにパトカーを止めて、小さな商店をやっているおばさんに声をかけて、そのままパトカーに乗り込んで去っていく。おばさんは、ああまたこの手合いね、と言わんばかりの顔で僕らを手招きする。僕らは部屋に案内される。相当ひどい宿を想像していたが、結論から言えばそれは失礼な思い込みだった。通された部屋は木造りでそれなりに広く、素朴だが決して不潔ではない良い宿だ。標高が既に3000mを超えているためか、真夏にも関わらず分厚い毛布が準備されていた。

 

部屋でおばさんは淡々と説明をする。トイレはそこ。コンセントはそこ。ワイファイはない。明日7時半に成都に行くバスが宿の前に来るので遅れないように。それだけ話すと、バタンと扉を閉めておばさんは部屋を出て行った。ラルンに突撃する日本人は決して少なくないだろうし、そのチャレンジの多くはこのようにワンゼで阻止されている。そしてその元チャレンジャーたちの多くがこの宿にお世話になっているのだろう。にこりともせず簡潔な説明に終始したおばさんの対応は、手慣れたを通り越して機械的な印象さえ受けた。

 

失望と安堵の眠り 

ラルン突撃はあっけなく頓挫した。突撃は無理だと言われ、突撃し、無理だった。しかし部屋に残された僕らは、それについて考えるにはあまりに疲れすぎていた。まずはメシである。エネルギーがない。恐怖にさえエネルギーを回せない人間が、今後の予定を思考できるはずがないのだ。

 

僕らは宿を出てメシ屋を探す。山奥の検問所の近くにメシ屋があるのか不安だったが、それは杞憂だった。成都から色逹までの道はそれなりに太く、道沿いにモーテルや売店はある程度ある。近くには小学校もあり、町と言えるほどではないにしても、ある程度の人がここに住んでいるようだ。もともと町があったのか検問所にいる人々が住みついて町ができたのかはわからないが、なんにせよありがたい。せっかくなのでせめてチベットっぽいものを食べたいなと思ったが、あいにくあるのは重慶料理の店と四川料理の店だけだった。前者の店に入り、肉と野菜と米を頼んでかっこむ。長距離バスは始発時間が早く、また道中もきちんとした食事をとる時間がないため、朝食と昼食はどちらもコンビニで買ったパンだった。エネルギー不足も当然である。

 

さて。今後について話し合う。まずは、ラルンにトライするかどうか。例えば夜遅くに宿を抜け出し、検問所をこっそり抜けて、その後道を通る車にヒッチハイクをお願いするという方法もある。しかしあいにく天候が悪く、僕らが宿に着いた頃から雨が降り始めた。僕は想像した。雨の中街灯もない真夜中の道を、公安の目を気にしつつ歩く自分を。ここまでバスで来るだけでも心をかなりすり減らした。もし真夜中の行軍を採用するとすれば、心とともに体もかなり消耗するだろう。うまくいく保証もない。公安に見つかれば、前回よりも厳しい処罰が待っているかもしれない。先ほど公安に捕まった際、僕らは知らぬ存ぜぬを決め込んだため、向こうも厳しい追及を諦めたということもあった。何より彼らの前にもう一度、今度は確信犯として赴くのが嫌で仕方なかった。深夜の強行突破をするには、僕の心はすり減らされすぎていた。M君もどうやら同じ気持ちであったらしい。ラルンへの未練がないといえば嘘だ。未練タラタラである。しかしそれ以上に、疲れた。ただ、疲れた。成都に帰りたい。気づけばそんな気持ちに支配される自分もいた。ある意味、公安の狙い通りである。 僕は成都に帰れることを、どこかで喜んでいた。ベッドに潜り込んだ自分の頭の中では、ラルンへの思いを絶たれた失望と公安の監視から逃れられる安堵が複雑に入り混じり、やがてそれらは手を取り合って、僕を深い眠りへと誘った。

 

次回に続く。

 

ラルンガルゴンパ旅行記③

前回の続きとなります。以下の記事を未読の方はそちらからどうぞ。

「ラルンガルゴンパ旅行記①」

「ラルンガルゴンパ旅行記②」

 

思いがけない始まり

検問は思いがけないところから始まった。ワンゼに着く少し前、バスの助手席に当たる部分に乗っていた人(スタッフだったらしい)が、客から白いカードを集め始めた。隣の青年の手元を盗み見ると、居民身分証と記されていた。これは中国人なら誰もが持っている身分証明カード(ID)である。なるほど、とうとう来たか。IDチェックの時間である。検問所に到着してから始まると思っていたが、それもまた僕らの思い込みだったようだ。

 

検問にあたり、これまで日本人の先輩方の取って来た作戦は単純である。ただひたすら以下の言葉を繰り返すのだ。

 

「没有」

 

検問はこれで通過できた、という人をブログでは何人も見つけることができる。いわゆるメイヨー作戦である。中国語を話せないM君も、この作戦を取ることにしていた。しかし僕はこの作戦に懐疑的であった。昔ならともかく外国人規制が強化された今、果たしてそんな安直な(バックパッカーの先輩方ごめんなさい)作戦が通用するのだろうか。幸い考える時間はバスの中でたっぷりあったし、多少なら普通話を話すことができた。熟慮の結果、僕は以下の言葉を追加することにした。

 

「我掉了」

 

想像してみてほしい。あなたが公安だったとしよう。あなたは乗客が中国人かどうかを確認するため、IDの提示を求める。そこにある家族連れのおじさんがいた。そのおじさんはうっかり者で、バスに乗る時には持っていたはずのIDをうっかりどこかに落としてしまった。しかし家族がラルンに行けるのにも関わらず、おじさんはうっかりIDを落としてしまったが故に、家族と離れ離れになって、10時間以上かけて一人で成都に戻らなければならない。

 

「うっかり忘れちゃったんだ!」

「なくしちゃったみたいなんだ!」

 

悲痛な顔でそう訴えるおじさんを目の前にして、公安たるあなたはどうするだろう。もし僕が公安なら、こう言っておじさんをクールに見逃すに違いない。

 

「わかったよ、今回は見逃してやるよ。せいぜい家族サービスするんだぜ。」

 

この作戦の肝は二つある。一つ目は、僕は中国人であると相手に信じ込ませることだ。多くの外国人はここで挫折するが、その点は僕には自信があった。何しろ、中国を回っていて、中国人に中国人だと確信されなかったことはただの一度もない。中国語の発音もそれほど酷くないのか、中国語で話しかければまず間違いなく僕は中国人だと思われる。相手が早口の中国語で話しかけて来て聞き取れず、「ごめんなさい僕実は日本人なんです、中国語わかりません」と言っても、冗談だと思って笑われてマシンガンチャイニーズを継続するか、あるいは「そんな見え透いた嘘をついてまで俺と話したくないのか」と解釈されて非常に不機嫌になる。嘘に聞こえるかもしれないが、本当の話である。色逹までのチケットをあっさり購入できたのも、僕の顔がいかにも中国人だったことに起因しているのかもしれない。だからこそ、僕の顔(と発音)を持ってすれば中国人だと思わせることなど容易いと思っていた。

 

二つ目は、相手に哀れだと思わせること。ああこいつは大事なIDをなくしてしまったんだな、それで引き返さざるを得なくなるなんて想定もしていなかったんだな、かわいそうだなと思わせれば勝ちだ。しかしこれは下手に出ることを意味しない。むしろ、自分は中国人なのだからIDカードなんてなくても色達に行けて然るべきであるというくらいの堂々とした態度が必要だ。毅然とした態度で、さりげなく不幸を演出する。バスに乗っていた10時間のうち起きている時間の大半は、そのシミュレーションに充てていたと言っても過言ではない。

 

しかし結論から言えば、その時間は全くもって無駄になった。

 

スタッフとのやりとり

バススタッフがIDカードを回収するために近づいてくる。僕の隣の青年がカードを渡す。スタッフが僕の方を向く。緊張で声が裏返らないように細心の注意を払いつつ、何度も発音練習したフレーズを口にする。

 

「我没有身份证,我掉了。」

 

スタッフは怪訝そうな顔をする。僕はにこやかに、しかし困ったという表情を作って繰り返す。

 

「我掉了。」

 

スタッフは怪訝そうな顔を崩さない。しかし彼は、次の客のカードに手を伸ばし、目の前から去っていった。通過した!僕は喜びを抑えるのに必死だった。ちょろい。なんだ簡単じゃないか。大したことないぞ公安!

 

しかしその喜びが続いたは長くてせいぜい30秒である。僕のすぐ後ろでスタッフの大声が鳴り響いた。その発言の対象は、僕の左斜め後ろに当たる席に座っていたM君である。彼は中国語を話せないため、先述のメイヨー作戦を用いたのだが、どうやらうまくいかなかったらしい。周囲の乗客も何事かと身を乗り出してM君を見る。スタッフがM君にがなりたてる。しかしM君は、一切口を開かない。僕は昔から彼のことを尊敬しているのだが、彼への尊敬の念を深くした。あれだけ言われてたら、僕なら口を開いてしまったかもしれない。しかし彼は、泰然と、無言を貫いた。

 

そうこうしているうちにバスは検問所に到着した。検問というと大規模なものを想像していたが、ワンゼの検問所は拍子抜けするほど簡素なものだった。川沿いの二車線道路を登ったところに簡素な白と黒の縞模様のゲートがあり、道の左側に公安のオフィスがあった。バスがその前で止められる。黒い服の公安が乗り込んでくると聞いたが、僕らの時はそうではなく、スタッフが集めたIDを公安に渡して、乗客は全員バスを降りてそのIDを公安から直接返してもらうという形式だった。乗客はぞろぞろと下車するが、IDを回収されていない僕は下車するわけにはいかない。どうしようかと思ってM君の方を見ると、M君は動けない状況にあった。M君は窓際の席に座っていたのだが、隣の席にスタッフが座り、M君をすごい形相で睨みつけている。

 

するとバスに公安が乗り込んできた。黒ずくめの格好で、銃を携帯していた。バスの運転手が呼んだようである。スタッフが公安に話しかける。内容は聞き取れなかったが、おそらく以下のような意味だろう。

 

「外国人がバスに乗り込んでいる!」

 

公安はM君に荷物をまとめてバスから降りろと指示する。戸惑う僕を指差して、スタッフが何か言う。これも憶測だが、おそらくこんな意味だ。

 

「こいつもIDを持っていなかった。こいつも怪しい!」

 

すると公安は僕にも、荷物をまとめて降りろと指示する。僕らとしてはここで降りるわけにはいかない。なんとか抵抗しようとする。しかし、思わぬ敵となったのは、IDチェックを終えて帰ってきた他の乗客だった。彼らは僕らがバスの中で怪しかったことを公安に告げ、僕らに降りろ降りろと言ってきた。彼らにしてみれば、面倒なやつらは降ろして早く出発したというのが本音だろう。結局バスの中全てを敵に回すことになり、僕らは引きずられるようにバスから降ろされた。

 

 

次回に続く。想像よりはるかに長くなってしまって申し訳ないです。

ラルンガルゴンパ旅行記②

前回の続き。「ラルンガルゴンパ旅行記①」を未読の方はぜひそちらからどうぞ。 

出発前夜

思いの外簡単にチケットを得られてホクホク顔の我々に現実を突きつけたのは、その日ドミトリーでルームメイトになった日本人のAさんである。Aさんはもう五年近くバックパッカー旅を続けていらっしゃるベテランである。その人はちょうどラルンから帰って来たところらしい。ぜひ生の体験談を聞こうと話しかけたところ、Aさんはにこやかにこう仰った。

 

「バスで直接ラルンは絶対無理w」「バスで直接行けたら勇者だよw」

 

ラルンにアクセスするために、まずはバスで近くの町である色達に向かうのが一般的だ。成都から色達に向かうまでの道で必ず通過するポイントに、ワンゼという場所がある。そこで公安が大規模に検問を実施している。外国人規制が強まるに従ってこの検問は年々厳しくなり、今や外国人がここを通過するのはほとんど無理だそうだ。事実Aさんも一度はここで公安に捕まり、ラルン行きを断念したことがあったという。

 

Aさんのとった対策は、ワンゼの南にある手前の町(名前は忘れた)でバスがトイレ休憩に入った時にバスからおり、そこから乗り合いタクシーなどを使って深夜や早朝に通過するというものだ。現地の人は日本人がラルンに行きたいこと、そしてそのためならある程度の出費は厭わないことを知っているので、日本人をターゲットにした乗り合いタクシーがたくさんあるという。乗り合いタクシーの運転手と交渉し、深夜か早朝に公安のゲートを通過してもらえれば、少なくともバスで馬鹿正直に特攻するよりも成功率が高いそうだ。何としてもラルンに行きたい僕らは、その作戦を踏襲することにした。色達まで一本で行ければベストだが、実際に数日前に行って来た人がそういうなら仕方がない。

 

その日の夜のことは今でも思い出す。この国において力のない外国人が、国家権力に逆らおうとしている。大袈裟な表現ではあるかもしれないが、そこにあるのはヒロイズム的陶酔ではなく恐怖だった。その恐怖は、ラルンに行けないかもしれないという事実を受け入れさせつつあった。今回の旅は、自分一人ならまだしも、M君を巻き込んでしまっている。もちろんそれほどひどいことにはならないと頭ではわかっていても、胸騒ぎがそれで収まる訳ではない。無事に帰って来られることを祈りながら、僕は眠りについた。

 

バスに揺られて

 翌朝、朝の4時に起床してタクシーで茶店子バスターミナルに向かう。相当早い時間の起床だったにも関わらずすんなり起床できたのは、つまりは眠りの浅さの裏返しだ。思い返せばこの日から成都に帰ってくるまでの数日間は、心が休まる暇がなかった。

 

バスターミナルに到着し、すぐにバスに乗り込む。バスに乗り込む際にも身分確認があったが、ここはパスポートを出しても問題なく通過できた。途中で下車する人がいるからだろうか、それとも愚かな日本人をわざわざ救済する理由もないと思われたのだろうか。いずれにせよありがたかった。

 

いよいよバスに乗る。僕とM君は以前の取り決め通り、バスの中では一切会話しなかった。外国人であると周囲の人間にバレるとどうなるかわからないからである。どうしても、という場合にはスマホのメモに文字を打って、それを渡して意思疎通をした。

 

バスは成都を出て数時間は高速道路を進んだが、ほどなくして山道を進み始めた。道幅は狭く、あるところでは落石や陥没が放置され、またあるところではガードレールが吹っ飛んでいた。おそらくガードレールを吹っ飛ばした車は、そのまま川に突っ込んだのだろう。このような危険極まりない道なのだが、交通量は意外と多い。これは現在東チベットに向けた高速道路のような太い道を中国政府が建設中だからである。コンクリートの大きな柱を立て、そこに鉄筋の骨組みを作り、高速道路が作られている。我々の通った山道は、その道の下を縫うように進むものだった。後から聞いた話だが、中国政府は東チベットへの高速道路開発に注力しているため、山道の補修はもうしないつもりであるらしい。高速道路が完成すれば、少なくともバスのように山道に不釣り合いなサイズの車はもうスリル満点の山道を進まなくてよくなるそうだ。まあ、完成にはどう考えてもまだまだ時間がかかりそうなので、当面は山道が使われるだろう。事故が起きないことを祈るのみである。

 

成都から途中下車する予定の町までは10時間以上ある。当初は不安と緊張で冴えていた目も長くは持たず、出発から数時間で眠りにつき、その後は寝たり起きたりを繰り返した。

 

まさかのチャレンジ

出発から9時間程度が経ったトイレ休憩。予定では、ワンゼの手前の町に着く頃であり、そろそろ下車する準備をしなければならない。ここで、百度マップを確認したM君から衝撃的な事実を聞かされることになる。

 

「どうやら道が聞いていた話と違う。このままではワンゼに直接ついてしまう。」

 

寝ぼけた頭を叩き起こすには十分な情報だった。ここで、我々の勘違いの根源である、その周辺の道路状況について簡単に説明したい。頭の中に大きなYを思い浮かべてもらうとわかりやすい。左上、右上、下の三本の直線がそれぞれ道路である。Yの中心の線が集まる点がワンゼで、左上に向かう直線が色逹に向かう道路だ。

 

問題はここからだ。成都からYに向かう道筋は、右上の道と下の道のどちらを用いるかで二通りある。成都から色逹への道順を百度マップで調べた際、通過するはずの道は下の道であり、そしてその下の道の途中に我々が途中下車するはずの町があった。しかしこのバスはどうやら右上の道からワンゼに向かうバスであったらしい。バスによって通過するルートが異なるのは当然だが、そのことに全く思い至らなかった。仮に思い至ったとしても、確認するのはかなり難しかっただろうとは思うが。

 

M君とスマホのメモをやりとりによる緊急作戦会議が開催された。5分間に及ぶ討議の結果、結論が出た。

 

「強行突破で行こう」

 

作戦会議というのは本来複数の選択肢から最善を選択する会議である。その定義に則るならこれは作戦会議ではない。そもそも途中下車できる町がない時点で、取ることのできる手段は現時点でそれしかないのだ。お互いの腹を決めるための時間がこの5分だった。

 

作戦会議をしたトイレ休憩の場所からワンゼまではだいたい1時間程度であった。図らずも「勇者」になってしまった僕らにできたのは、二度目の奇跡を祈ること、ただそれだけだった。

 

次回に続く。